臨床心理学で博士論文を書くということ(その2)
「臨床心理学で博士論文を書く」ということについて続けて書いています。
前回は博士号の位置づけについてまとめました。
昔は「末は博士か大臣か」と言ったほどで、少なくとも自分の当時所属していた大学で博士号をもっておられた先生はそんなに多くなかった。
今はもう全然違います。博士論文は功成り名を遂げた先生が自身の研究のまとめに書くものではなく、研究者として最低限の技能を身につけているということを示すものになっています。いわば研究者としてスタートラインに立つ力をもっているという証明書であり、現に今の若手の研究者は、皆とっています。
このような博士論文の位置づけの変化をしっかり自覚することが大事だと思われます。(私はこの自覚がずいぶん遅れてしまいました...)
もうずいぶん前ですが、恩師から「あまり肩肘張らなくていい。今できる範囲でまとめなさい。」と言われたことがあり、それで少しだけ肩の力が抜けたことを思い出します。
さて、個人的には博士論文は「書き始めるまで」がもっとも重要だと思います。
「書き始めることができれば(そして粘り強ささえあれば)書き終えることはできる」
のです。逆に言うと、「書き始める」に至るまでが実はもっとも難しい、時間のかかることなのです。
前回、そのことについて少し触れましたので、今日はその続きを述べてみたいと思います。
さて、「別に書き始めるだけなら難しいことはないじゃないか、書きたければ書けばいいじゃないか。」と思われる方がいるかもしれませんが、博士論文の場合なかなかそうもいかないところがあります。
なぜ博士論文(この場合特に「論文博士」をイメージしていますが)が書けるかと言えば、主査を引き受けてくれる先生がいるから書くことができるのです。その者が博士論文を書き上げる力があるか/その論文は主査を引き受けるに足る内容になるか、を認めてもらって、はじめて着手することができるというわけです。
私の場合は、学部の頃のゼミの恩師が背中を押してくれ、続いて大学院の時に臨床指導を受けた恩師が主査を引き受けてくださったので書くことが出来たのです。(私の場合そこに至るまで、大学を離れて10年ほどかかったということですが(苦笑))
じゃあ、どうやったら認めてもらえるか。
これは明快で、これまでどのような論文を書いてきたか、ということになります(顔が広いとか、お世辞が上手いとか、そういったことは関係ないので大丈夫です(笑))。
これについては基準として各大学で明文化されているところも多いと思います。例えば、査読付きの学会誌に論文何本、英語論文何本などを最低の条件にして決められているところもあると思います。ただ、単にその基準を満たしているだけではだめで、やはりその論文の中身がしっかり評価されていて、はじめて俎上に載るのじゃないかと思います。
そういった意味で、これから博士の学位取得を目指す人は、いきなり博士論文を考えるのではなく、まず一本一本、自分の目の前の論文をよきものに仕上げていく。そういうことを大事にされるとよいでしょう。
そして、この部分にはどうしてもそれなりに長い時間がかかります。
博士の学位を目指すためには論文の本数が大事だと考えて(それも一面の真実ですが)、たくさん論文を出すことに力を注いでいる人がいますが、量的なことを気にするより、先にも述べた「よき論文」をしっかり書いていくこと。特に、一本一本の論文を書くときに少しずつ自分がレベルアップしていくような書き方を心がけることをお勧めしたいと思います。つまり、紀要論文を書いた後に、査読付きの論文へ、次に時間のかかる事例論文や英語論文にもトライする、そのようにしていくと、内容も充実していきますし、博士論文を書く自信がもてると思います。
私も最初の一本目は恩師におだてられ、まぐれで書けたという自覚がありましたので、次は無理だと思いましたが、一本書くともう一本書けるかもという気持ちになるものです(笑)。しかし何本か書いても、さすがに自分には英語の論文などは絶対に無理だと思っていました。でも、(これも他のある先生の勧めがあってのことでしたが)思い切ってトライして(途中くじけそうになりましたが)書けたのでした。
論文は「絶対書けない→なんとか書けた」の繰り返しなのです(...なのではないかと思います)。博士論文はその分量もまとめる枠組みも、なにより完成までにかかる時間が、普通の学会誌論文とは比較にならないスケールのものですから、それこそ途方もないことのように思われるのですが、「それまでもなんとかやれた」という蓄積は大きな支えになると思います。そういった意味でも、少しずつ自分にとってレベルの高い論文投稿にチャレンジされるとよいと思います。
それから、学会誌論文を書きながら少し気にしておくとよいのは、書きながら自分のスタイルを確立しようとすることです。
これは絞られた研究テーマという意味だけではなく、いくつかの異なるテーマで論文を書くときにも貫かれる全体のトーンというか、その人らしい文体のようなものです。
論文にそんなもの不要だろうという見方も当然あると思いますが、博士論文というのはこれまでに書いた論文を単に集成した論文集のようなものであってはならないので、自分らしい文章のスタイルや全体を貫くトーンというものが確立されていると強いと思います。それはテクニカルなことではなくて、案外論文の中身と直結さえしているものです。
このスタイルをどうやって作ったらいいのかは私にもわかりませんが、少なくとも論文の本数だけを気にしていたらできないことではあるでしょう。
さて、本ブログのテーマに戻ると「臨床心理学で博士論文を書く」ということですから、ここで特別な要件に触れなければなりません。
それは研究だけでなく、実践としての臨床活動にも相当力を入れていなければならないということです。他の領域もそうかもしれませんが、臨床心理学においては特にこの研究と実践が両輪とも回っていなければならないのです。
臨床実践の方は博士論文に直接生きるようなものではないかもしれない。でも、やることです。それ以外にないと思います。臨床心理学に関する博士論文は必ずしも事例論文である必要はないかもしれませんが、臨床実践となんらかの意味で結びつかない博士論文もまたないはずです。
私の場合は「結果的に」自分のやってきた臨床実践のある部分が博士論文のテーマと素材になりましたが、もちろん臨床にかかわっているときはそのようなことは見えていませんでした。心理療法はそれがどういうふうに展開していくか、いつ終結を迎えるかもわかりません。仮説検証的な向き合い方をしえない実践です。しかし、長い期間続け、そこで感じた細かな情感の積み重ねがなければ、何よりそれらが自分の思ってもいなかった展開を示さなければ、博士論文のテーマは見つけられなかったと思いますし、全体を貫くトーンも身につかなかったと思います。この領域の博士論文は、ある種の偶然というか、幸運に支えられて書くことができるのかもしれません。
このような臨床実践と研究の関係は、臨床心理学で博士論文を書くときの難しさでしょう。したがって、臨床心理学で博士論文を書くときに課程博士の中で書こうとするのは(ー優秀な方はできると思うのですがー)なかなか大変なのではないかなとも考えるのです。
いずれにしても、あらゆる臨床実践は(直接ではないにせよ)博士論文の底に流れる通奏低音のようなものになるはずです。というか、その通奏低音なるものがしっかりしていなければ、臨床心理学で博士論文を書くことはできないのではないかと考えられます。
まとめると、
臨床心理学で博士論文を書くということは、その前に「まず書くに足る力がある」と周囲に認めてもらうことです。そのためには目の前の一つ一つの論文をよきものにしていくことです。加えて、(運がよければ論文のテーマや自分のスタイルにつながってくるかもしれない)臨床活動をとにかく続けて行くということです。
書いてみると至極当たり前の話になってしまいましたが、偽らざるところです。
ただ、これから博士論文を書こうとする、特に若い方にとっては、できるだけ早く博士論文を仕上げ、研究者としてのスタートラインに立たなければならないという切実な事情があることも理解しています。ですので、ここまで述べたようなことは現実的にはあまり役に立つアドバイスではなかったかもしれない。ただ、<時間をかけることをおそれない>ということは、どうも王道であるように思うのです。
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