日本箱庭療法学会参加記(2019年11月)
日本箱庭療法学会に参加してきました。
今年は、(わが国に箱庭療法を導入された)河合隼雄先生の十三回忌でもあり、京都で記念大会として開かれました。
今日はそのことを書こうと思います。
その前に。
僕は、ずいぶん前になりますが、京都で3年間ほど臨床の仕事をしていたときがあり、京都には特別な思い出があります。そのときに長女が生まれたので(そして長い間NICUに入っていたので)、いつも京都に来ると、懐かしいのとは少し違う、胸が苦しくなるような気持ちになります。
京都は間違いなく魅力的な町です。景色というか、匂いというか、なんとも言えない。どういう要因でそう感じるのだろうかといつも考えるのですけど、まだ判然としません。
いずれにしても、京都がとても魅力的な町であることを認めつつ、個人的には時々来ることに留めておきたいように感じています。ずっといると、僕はこの町に飲み込まれそうな気がするのです。
さて、それはそれとして、
初日は、「河合隼雄と仏教」というテーマで、中沢新一さんによるシンポジウムが開かれました。
テーマは仏教でしたが、実際の内容では「ロゴス」と「レンマ」という切り口が繰り返し語られていました。
ロゴスとは、分割して、対立項を作りながら、世界を説明的に捉えていくあり方です。すなわちロジックですね。そのもっとも如実な現れが言葉の世界というわけです。
一方、レンマとはロゴスの世界の切り取り方とは異なる世界の切り取り方です。いわば、直感的・全体的に世界を把握するようなあり方と言えるものです。
われわれは言葉の世界に住み、ロジックをきわめて大切にしています。ゆえに世界は分かりやすく理解でき、さまざまな事象の原因がはっきりし、その事象をコントールしうるようになりました。科学は発達し、われわれの生活は豊かになりました。ロゴスの世界はすばらしい、というわけです。
ロゴスの世界は、中心や原理によって「統合」されていくものです。中心や原理がないと、分割も対立項もないためです。そして、(ロゴスの世界があまりに強烈なので)われわれは<中心によって統合されていく世界>を自然と、また唯一の世界のありようだと認識しているのです。
しかし、ものごとはそういった中心や原理による「統合」というあり方しかないでしょうか。中心や原理なく、「全体としてなんとなく上手くいっている」という事象はないでしょうか。
この「全体としてなんとなく上手く行っている」ことを大事にし、このことを説明しうる枠組みを、(狭い近代科学とは違った意味で)「新しい科学」として立ち上げていかないといけない。河合隼雄先生はそのように考えていた、という話でした。
イメージをテーマとする箱庭療法学会ならではのお話であったと思います。
また、シンポジウムでは河合隼雄先生の考えに影響を与えた井筒俊彦の話が繰り返しなされました。
実は、ちょうど私は、井筒俊彦の「眺める」意識というアイデアを切り口に心理療法における意識の働きを考察した本を出版したところでした。この本は、日本箱庭療法学会の「木村晴子記念基金」から助成を受けることによって出版することができたものです。
河合隼雄先生の十三回忌に、箱庭療法学会から助成をいただいて、井筒俊彦に関係する本を出版することができたことを、ごく個人的に、とても光栄な偶然として受け止めました。
本については、また後日記事に書かせていただきます。
翌日は、研究発表への参加が中心でした。また、ある方の研究発表の司会を仰せつかっていたので、それを担当しました。
その研究発表は、葛飾北斎の「富岳三十六景」から日本人の意識のありようを考えるという、これまた箱庭療法学会らしいテーマで、個人的には大変興味深いものでした。「富岳三十六景」を、これまで個性化の過程を示すものとしてしばしば取り上げられてきた「十牛図」や「賢者の薔薇園」などと比較することで、日本人の意識のあり方の特徴が見えてくるのではないか、というものです。大変刺激的な内容で、いつか論文として公刊されることを期待して待ちたいと思います。
最後に、
烏丸御池にホテルを取ったので、夜はそのあたりをぶらぶらして、お酒を飲めるお店を探しました。
いつものことですが、「知らない町でわりといい居酒屋を見つける」という、自分の数少ない才能をまたしても発揮して、今回もよいお店に入ることができました。
・すぐき菜と塩昆布の入ったポテトサラダ、とか
・はもの南蛮漬け、とか
・黒どりのてんぷら、とか
・柿の入ったゴマダレのサラダ、とか
めちゃくちゃ美味しかった(笑)。
京都の居酒屋さんのレベルの高さを実感した次第です。
学会の報告が、最後にはまた『酒場放浪記』か『孤独のグルメ』になってしまいました…。
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