『カウンセリングの実際問題』
今日のブログは、本のカテゴリとして、心理療法における名著中の名著を紹介したいと思います。
このブログを、心理療法に関心のある若い人が見ることがあるとして、もしまだ読まれていない人がいたらぜひお勧めします。
われわれの世代以上は、この本を読んだことがないという人はほとんどいないでしょうから。
『カウンセリングの実際問題』
(1970年 河合隼雄著 誠信書房)
なんと言ったらよいのでしょう、これほどカウンセリングの本質をわかりやすく(しかも一般的な誤解を解きつつ)書かれた本はないのじゃないでしょうか。
これが自分の生まれる前に出版されていたということが、驚きです。
「難しいことを平易に書くことがもっとも高度なテクニックである」という見解に従えば、カウンセリングというきわめて複雑な(しかも、それを行っている「私」という要因が入ってしまう)営みを、「ですます」調を用いて、具体的かつ的確に伝えられたということは素晴らしい仕事であったと思います。
科学技術は50年前と今とでは隔世の感ですが、こと「人が人の話を聴く」という心理療法においては、50年近く経って一体何が進歩したのだろうかと考えさせられる内容です。
この本に対する書評やレビューは山のようにあるでしょうから、私は少し違った視点でその印象を書いてみようと思います。
私は今、理由があって、河合先生のこの本を読み直し、大事なところを書き写しています。
そこであらためて思ったのは、河合先生の他の本と比べると、かなり思い切った<感覚的なこと>が書かれてあるなあということでした。
例えば、次のような感じです。
(疲れていたり、カウンセリングが上手く進んでいない感じがして)クライエントに会いたくないというとき、「私はあなたに会うのが辛い」と伝えることは、決してカウンセラーのgenuineとはいわないのだと。そこには、せっかく来られるのだから会わないといけないという気持ちも起こる。でも、会いたくない、やめたいという気持ちもある。このようないろいろな気持ちに対して、まずカウンセラーは自分自身の心に忠実にならねばならないのだと、それがgenuineなのだと、河合先生は言います。
そして、
いうならば、相当自我防衛をはずしていなければならない。そして、その自分自身の自我防衛を薄くしているなかで自我の中に飛び込んでくるものを相手にぶち当てるのです。
(『カウンセリングの実際問題』河合隼雄著)
あるいは、大きさの違う円を二つ並べたような図を示して、次のように言われます(図を引用できないのが残念ですがー)。
向こう(クライエント)の死にたい気持ちを絵に描いたら、このぐらいの大きさに見えたとします。それに対して、カウンセラーのこれは死ぬのをとめたいという気持ちも、その大きさを絵に描けたとすると、このふたつをひとつにして、これのちょうど重心あたりをめがけて言葉をたたき込むといいと私はいつも思っています。
(『カウンセリングの実際問題』河合隼雄著)
両方とも「なんとなくこのあたりに、言葉をぶち当てる/たたき込むんだ」というわけです。
まるで長嶋茂雄の打撃指導のように「ボールがこう来て、ここでバッ!」みたいな(笑)感じがします。
嫌いじゃありません・・・。
ただ、言われても、そのようにはきっとできないでしょう。
河合先生は、わかりやすくは書かれるけれど、このような感覚的なことを上手に避けてこられているような印象がありました。ところが、この本にはその感覚的なポイントが意外に書かれてありまして、その発見が面白かった。この本は河合先生の著作の中でも初期の仕事ですので、そのように書かざるを得ない何かがあったのでしょう。
近年は、客観的で論理的なこと(すなわちコントロ—ルしうること)が優勢ですから、主観的・感覚的なことは評価されづらい、あるいは避けるべきもの、という雰囲気があるように思われます。
もちろん感覚的なことを簡単に一般化したり、またすぐにまねができると思ってはいけないでしょう。感覚的なことは一歩間違えると独善的になり、場合によってはうそも混じりやすいものであるために、われわれは注意しなければいけないと思います。
しかし、カウンセリングがそもそもクライエント個人の言葉にしづらい気持ちを、カウンセラーという、これもまた特定の個人にぶつけてくる中で、双方の内に沸き起こってくる「何か」を動力源にして進むことを考えると、感覚的なことをまったく抜きにして、客観的・論理的にのみ語ろうとするのも、無理があるような気がします。
今のところ(例えばこの本に書かれてあるような)「カウンセリングにはそういう感覚的なことも大事なのだな」と知っておくことだけで、十分に意味があるのではないかと思っています。
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