繋げる仕事としての心理療法


 僕は心理療法は「繋げる」仕事だと思う。つくづく。


 村上春樹がよく「配電盤」のイメージを小説の中で語ることがあったけど、そういったものに近いと思う。あっちからきたものをこっちに流して、こっちからきたものをそっちにつないで、と。たぶん村上春樹の小説の中では、自分は空っぽだ、ということを意味したイメージでもあったのではなかったかな。だからぴったりくるのだと思う。


 これは、心理臨床の領域でよく言われる「多職種連携」とかそういうことでは決してない。全然ない。むしろ正反対だと思うくらい。

 いわゆる「連携」の中には、連絡を取りあって事に対応している自分や情報を握っている自分、つまり自意識というのがあって、それが事態に余剰な影響を与えているように見えることがある。


 そうではなくて、「心理療法は繋げる仕事だ」と言うとき、それは意識と無意識を繋げる、イメージを繋げる、大きなものに繋げる、そのための通路になっているということを意味している。


 例えば、面接の前半に出てきた話題を、面接後半の別の話題と上手く繋げること。

 「それって、先に聞いたあのお話とそっくりですね。」

 荒唐無稽に見える夢のお話の髄のところを上手く拾って、現実のお話の髄のところと繋げること。

 「それって、まるでこの前お聞きした夢のお話みたいですね。」

 クライエントの語る物語はどこまでもその人固有のものだけれど(だからこそ意味があるのだけれど)、同時にその物語をスケールアップして、より大きな、普遍的な物語に繋げてあげること。

 「それって、なんだかあの有名な昔話と似ていますね。」


 そういうことを面接の中でやっているのじゃないかなあ。




 心理療法は、自分にしかわからない隠された意味を相手に伝えたり、自分の中にある考えや理論で相手を理解したり、自分の力で相手を動かしているんじゃなくて、既にそこに出ているものを単に繋いでいるだけで、セラピスト自体は配電盤のように空っぽなんじゃないか(正しくは繋ぐセンスみたいなものがあるので、空っぽではないのだけどー)と思う。

 自分の枠組みで解釈しているのではないと思う。


 河合隼雄先生はかつて「カウンセリングにおいて自分はアースなんだ」と言われた(正確に覚えていなくてすみません)。雷みたいに大きなエネルギーを(抑えたり、コントロールするのじゃなくて)大地にお返ししているのだと。たしかにそうなのかもしれない。


 配電盤でもアースでも、そういう意味で、正しく心理療法は繋ぐ仕事なのだ。


 カウンセラーに技術があって、それが上手く見えるとすると、その繋ぎ方の上手さを感じ取っているのじゃないかなあ。できるだけ自分を空にして(自我を薄くしておいて)、両端にある何かを上手く繋ごうとしている。これはちょっとユーモアも必要で、見方によっては香具師の口上みたいに言葉遊び的な側面があり、やや危険ではあるのだけど、その危険性を最小化するために各学派の理論や職業倫理があるのかなと思う。


 

 そして、自分を通過していくだけ、という意味で、「心理療法はさびしい仕事だ」と河合先生がおっしゃった意味もあらためてわかるような気がする。


 そういったことを考えました。


Ueda Lab (心理療法研究室)

とある大学で心理療法の研究と教育をしています。

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