釣りについて
この夏休み、地元に帰って釣りをしてきました。
1年のうちほんの一日のことですけど、夏の一番の楽しみです。
子どもの頃は海がすぐそばの地方都市に住んでいたので、毎週のように釣りに行っていたのですが、東京に出てからは一年に一日行くことができるかどうか、になってしまいました。
それでも大事な気分転換の一日です。
信じてもらえないんですけど、昔、親と夜釣りに行って、すごい大物が掛かったと必死に上げたら、海水の入った大きなゴム長靴が釣れた時がありましてー。マンガみたいに。
そんなことはともかく。今年は次女と二人で行くことができました。一人で行くつもりでいたのですが、娘から行きたいと言ってくれました。大きくなった娘と二人で釣りに行けるなんて、本当にうれしいことです。
で、釣果はと言いますと、…。僕は「0」で、娘がメバルを一匹釣りました(笑)。
いいんです、釣れなくても(笑)。釣りをしているということが重要なんです。
釣りと今の自分の仕事との共通性について考えることがありました。
いろいろな面で釣りと心理療法は似ているように思います。
そもそも海は深くて、中は見えません。つまりよくわかりません。
よく無意識を海に喩えることがありますが、そこまで難しく考えずに、相手の心とそれを取り巻く状況全体というくらいにイメージしてみます。心理療法やカウンセリングと言えど、相手の心や全体状況がわかるわけではありません。海のように深くて、直接は見えないものを対象としているという意味では同じだと思います。
でも、釣りの場合、実は少し「見える」のです。例えば、オモリが底に着くまでの時間やリールから出る糸の長さで「ある程度は」わかります。
それから、オモリが着底したら少し仕掛けを引いてくるのですが、そのときに海底の様子が少しわかります。(僕くらいの素人でも)オモリを引きずる感触で「なんとなく」わかるのです。よく言われるのは「かけあがり」というやつですね。
心理療法も近いところがあって、まったくわからないわけではなく、いろいろな手がかりから「ある程度は」わかるところがあると言えると思います。
釣り方もさまざまです。遠くへ投げて釣る人もいれば、近くでウキを使って釣る人もいるし、餌ではなく疑似餌(ルアー)で釣る人もいます。
これは自身の得意とする理論的オリエンテーションと言ってもよいでしょう。
しかも、道具の善し悪しもある。先の「わかる」程度は、道具が良いほどより繊細にキャッチできるでしょう。
この釣り道具にあたるのがさまざまな応答技法や心理検査などかもしれません。高価な釣り道具で必ず釣れるということではないけれど、良い釣り道具の方がより広く深く探ることができたり、よりセンシティブに対応することができるでしょう。心理療法も多様な応答技術や検査を身につけているほうがよりきめ細やかに対応できるはずです。
そして、やはり上手い下手がある。上手い下手と言ってもよくわからないので、ひとまず経験と考えておいてよいと思います。経験豊富な人はやはりよく釣れるでしょう。
でも、初心者でも釣れることはある。それが面白ところですね。
ベテランでも釣れないときがある。
(全く釣れないときを「ぼうず」と言うんですが、なんでかなと今回調べてみたら、「毛がない」=「魚っけがない」というわりと単純な語源でした…(笑))。
とにかく、初心者でも、そんなに高価な道具じゃなくても、釣れるときは釣れる。
これは個人を越えたいろんな条件に助けられているのですね。
自然(場所、潮の干満、季節、天気、時間)を味方につける必要がある。
条件すべてをこちらが完全には選べない。与えられた場所や時間という条件のもとで釣りをしている。
海から何かを得ようとしても、人為ですべて決まるわけではない。
結局は「自然」を相手にしているのですものね。心理療法もそうだと思います。心理療法やカウンセリングというのは、人を対象に科学の力で操作(コントロール)しようとするもののように思われているけど、違うように思います。
経験や道具も自分なりに磨き、準備をするわけですが、一方でさまざまな自然条件をできるだけ味方につけるように振る舞っていく。その中で、(上手く行けば)ある恵みが得られることがあるということだと思います。
他にも個人的に似ているなと思うところは、「のんびり待っている」ことでしょうか。でも、最近の釣りは手返し早く何度もアタックしたり、頻繁に場所を変えたりするスタイルが多いようなので、これはあくまで個人的な好みかな。
ただし決定的な違いもあって、釣りは個人の楽しみで、心理療法は仕事であるということでしょうか。似ていながらも、そこで必然向き合う態度が変わってくるのだと思います。
そんなことを考えた今年の(ぼうずだった…)夏の釣りでした。
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