心理療法における「連携」問題
心理療法(あるいはカウンセリング)は、基本的に「私」と「あなた」の関係の中で、しっかりとお話を聞いていくことを軸とした営みです。
目的上「あなた」に集中するのは当然ですが、そのお話を聞いている「私」という要因の大きさにも自覚的であることが、心理療法を行う者がもつ大事な視点です。
少し大げさに聞こえるかもしれませんが、難しい問題であるほど、「私」が「引き受ける」という覚悟の中でなんとか展開していくような感覚があります。
逆に言えば、それこそが(「私」を切り離した)How toやアドバイスと心理療法の違いでもありましょう。
一方で、このような営みは、独善的になりやすかったり、「私」が抱え込んで外から経過が見えなくなってしまったりと、危険な面もあります。
近年は、心理的な援助も「私ーあなた」の中で完結させるのではなく、それぞれの専門職が他の専門職と「連携」を取りながら、システムとして対処していくということが強調されるようになりました。
今、CiNiiで「カウンセリング_連携」などと入れて検索すれば、ただちに数百の論文が上がるほどで、まさに心理療法領域の一大トピックと言えるでしょう。
学会や研修会でも、「連携」に関する発表は必ずと言ってよいほどなされています。
この流れがよくわかるのは学校現場で、例えば、不登校の生徒がいた場合、担任の先生だけが対応するのではなく、スクールカウンセラーの力も借りる、スクールカウンセラーはスクールカウンセラーで面接室だけに閉じこもっていないで、担任と情報交換をしたり、スクールソーシャルワーカーの力も借りる。すなわちそれぞれが「連携」「協働」しながら問題に対応していく、ということを勧めています。
これは、近年「チーム学校」というキーワードとして広まっているので、ご存知かと思います。
上のような流れは、たいへんもっともなところがあります。
「連携」ということは、一対一の関係に閉じこもらず、開かれていくことを意味しています。
一方で、心理療法はそれ自体どこまで行っても、「私ーあなた」の関係の中で展開するものです。
いわば閉じて深くなっていく方向です。
「連携」の重要性は十分自覚しながら言うのですが、やはり<連携すること>と<心理療法すること>は、一義的には反対方向を向いているものだと考えられます。
そして、急いで付け加えなければいけないのは、一義的に反対方向を向いたものであっても、反対方向だから両方を同時に実践することが不可能かと言えば、もちろんそんなことはありません。そんな単純なことは決してない。
しかし、対立した方向性をもつ以上、その両方を実践するには、それなりの工夫というか、覚悟のようなものが必要なはずなのです。
むしろ、先に述べてきたように、多職種の連携が重要になってきている現状と、心理療法が「私ーあなた」関係をその本質としていることを考えると、私は、葛藤的な状況をそのまま論じていくようなやり方でしか、心理療法における「連携」問題は語れないような気がしています。
<対立したものを対立したまま統合する>
これを花田清輝は「楕円思想」と呼びましたが、まさに心理療法には、そのような、安易な妥協を許さない厳しい態度が求められているのでしょう。
対立しているから右か左かどちらか正しいと結論を出すのではなく、また安易に折衷したりバランスをとったりするのでもなく、引き裂かれながら、そのままやるような姿勢。
近年の「連携」重視論には、この<引き裂かれている>という感覚抜きに、非常に安易に語られているような印象があり、それが(実はもう数十年も前から)「連携」が強調されているにもかかわらず、未だに「連携が大事だ」といった当たり前の結論から先に進まない原因なのではないかなと思います。
心理療法にとって連携とは「情報交換」や「役割分担」といった話ではないのです。
私はこれまで連携について直接論じるような研究は行なってきませんでした。そのような問題は、私には論じるに大きすぎるトピックだと思っていました。
それでも、この度、自分なりに心理療法の「連携」問題について、考えをまとめておきたいと思うことがあり、それを論文として公刊しました。
少し実践に寄りすぎた論文になっているかもしれません。
しかし、たまにはこういった論文を書いてみるのも悪くないだろうと思って、書いてみました。
今回は心理臨床家の「見立て」という技能を切り口にして、なんとかこの難しい問題に近づけないかと考察したものです。結果、なんだかtips集のようなものになってしまって、今ひとつですが、現時点では仕方ないとしましょう。
もし関心のある方がいらっしゃったら、上のリンクからお読みいただければと思います。
心理療法における「連携」問題は、私が少し苦手としているところでもあり、これからも考えを深めていきたいと思っています。
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