映画「帆花」を観て

 少し前ですが、映画「帆花」を観てきました。

 ポレポレ東中野という小さな映画館で。


 これは重い障害を抱えて生まれてきた帆花さんとお母さん、お父さんの日常を描いたドキュメンタリー映画です。

 帆花さんの自宅で、國友勇吾監督ご自身が撮影されています。


 帆花さんは身体が動かず、呼吸器や定期的な痰の吸引などが必要なので、映画はほとんどがご自宅のベッドサイドの映像で、そこに日常の些細な出来事がオーバーラップしていくような流れですが、それでも十分に何かを訴えてくる力がありました。


 実は最初この映画のことを知ったとき、「見に行きたい」「見ないといけない」と思ったのですが、正直落ち着いて見られるだろうかと不安でもありました。


 私の長女も、帆花さんほどではなかったけれど、生まれたときに重い障害を抱えており、7ヶ月の間NICUに入院し、その間に大きな手術もしました。退院してからも、食事は長い間鼻からのチューブで摂っていましたし、何かあればすぐに入院、夜は何かあるのではないかとそばを離れられず、外に出るのも緊張し、おおごとでした。

 今は幸い長女はかなり元気になったため忘れていた過去のそれらを、映画を見ることで思い出さざるを得ず、平静でいられなくなるのではないかと怖れたのです。


 ただ実際は、心は動かされたものの、落ち着いて観ることができたと思います。


 もし関心のある方がいたら、ぜひ観ていただきたいと思います。


 長期にわたって自宅にビデオカメラが入り、日常生活を映されるわけですから、お母さんはビデオに撮られる複雑な思いも語られています。

 そのような率直な語りもこの映画の魅力になっています。


 帆花さんは身体が動かないため帆花さんからの表現が一見読み取りにくいように思われるのですが、さまざまな微かな表出があり、それをお母さんやお父さんが間違いなくキャッチしているのだなと感じました。私の長女も言葉が不自由なため、他の人には伝わりにくいかもしれませんが、何を言いたいか、どういう気持ちか、は私にはわかるのです。

 それは、何と言われようともわかるのです。




 哲学者の森岡正博さんがこの映画のことを評して、「存在に巻き込まれることの希望」と書いておられます。

 まさにそういうことだと思います。

 今となってはよくわかります。


 お母さんがあるシーンで、マンションの一室で帆花さんの介護をしていると「ふと、世界に帆花と二人きりになったような気がする」と語られていました。それは、さみしさのようなものなのかもしれません。と同時に、言葉にしづらいのですが、おそらく密度の濃い幸福感のようなものでもあるような気がします。そのような感覚がたしかにあるんです。


 私の生活は障害を抱えた長女の存在を中心に動いています。それは大変なことではありますが、長女の存在に巻き込まれていることは、間違いなく幸福なのです。


Ueda Lab (心理療法研究室)

とある大学で心理療法の研究と教育をしています。

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