卒論指導2018

今年も卒業論文指導が終わりました。


私がヒヤヒヤするようなことではないのですけど、毎年ヒヤヒヤします。

ちゃんと提出してくれるかなあと(苦笑)。


次々と原稿が送られてきて(メールって便利ですね…)、考察にコメントを付して返信し、書式を整えてみたり、誤字脱字を指摘してみたり、だんだん目が回ってきます(笑)。


この時期大学教員は講義や研究などの日常業務に加え、入試や各種会議が立て込む時期ですが、たぶん多くの教員が優先順位を入れ替えてでも学生の卒論指導を上にもってきているのではないかと思います。


なぜそこまでやるか。

それは学術的な研究内容ももちろん大切ですが、卒業論文のもつ形式陶冶的側面を重視しているからです。


「卒論を書くことでしか身につかないものがある」、「なんとしてもそれを身につけて社会に出てほしい」、「最後のご奉公だ(笑)」くらいの気持ちだと思います。


大学教員のまごう事なき本音ではないでしょうか。


先人が言っている知識をきちんと踏まえること、その上で新しい問題を設定する力、その問題を解く実験なり調査なりのデザイン力、ゼミのメンバーと議論し、よい案を受け入れる余裕、統計的知識とデータを読み込む力、そして、ある程度長い論理的な文章を書く力など。


これほど自分を支えてくれるものはないと思います。

(少し言い方を変えれば、これほど汎用的に「役に立つ」(苦笑)大学の学びはないのではないでしょうか)


(まだ私が大学の教員になる前に、学生相談の現場で卒業論文の相談をよく受けることがあって、このことをまとめて論文にしたこともあります)



ところで、卒論指導という今回のテーマで言えば、最近自分の中で迷いも生じています。

卒論指導とは、どのようなものであるべきか、どうすればよい指導になるか。


私は決して甘い人間ではありませんが、ただ尻を叩いて書かせたり、細部にまで完璧を求めるほうではありません。

卒業論文の醍醐味は、そのようなスタイルでは感じ取れないような気がするからです。


卒業論文は学生にとって初めての「研究」と言えるものですから、そこでまず研究することの面白さを感じてほしい。

何事も最初が肝心です。

そのためにはできるだけ自由な場を設定してあげること。

そう思っていました。


ただ最近は、ちょっと自分の指導法に自信がなくなっても来ています…(苦笑)。


受け身で学ぶことから抜けられない学生にとっては、問題の設定から計画、実施、結果の表現まで、全て自分から発信しなければ何も動かない「研究」という行為を苦痛に感じる人もいるようです。そういった学生にこそ、逆説的に、卒業論文に取り組むことが重要になってくるわけですが、どのような指導がよいのか、いつも迷っています。


単に教員があれこれと手を出せばよいというふうにはならないところが、卒論指導の難しさでもありましょう。

いずれにしても、大学の学びの中で卒業論文制作が重要であることに変わりはありませんから、きっとこれからも試行錯誤しながら指導していくことになるでしょう。


(私がまさにそれを得たように)彼ら彼女らにとって、卒業論文に取り組んだ経験が、何らか形でその後の自分を支える<考える仕方>となってほしいと願います。


Ueda Lab (心理療法研究室)

とある大学で心理療法の研究と教育をしています。

0コメント

  • 1000 / 1000