『うつ病九段』

『うつ病九段』


 これはすごい本です。

 この本はうつ病に罹ったある将棋棋士がその体験を手記としてまとめたものです。


 私は将棋が好きで、これまでブログでも何度か取り上げてきました。また臨床心理学を専門にしているという仕事柄、「うつ病」は非常に大きなテーマとして取り組んできました。

 そういった意味で、絶対に読まないといけないなと思っていた本でした。


 著者は、先崎学九段です。

 羽生善治さんと同世代の棋士で将棋が強いことはもちろん、軽快な語り口でテレビの解説も面白く、また文才もあり週刊文春でコラムを執筆されているなど、非常に人気のある棋士さんです。

 そういう才能のある人が、しかも(ほとんどあからさまと言ってよいほど)素直に書いたのですからすごい。

 うつ病の症状の克明な記述、棋士らしい冷静な分析、加えて将棋界の裏話などが、わかりやすい文体と、率直な言い回し、どこかユーモアも感じ取れる表現で書いてあります。


 本書はうつ病の闘病記とも言えますが、単に闘病記や手記とは言えない、またノンフィクションというほど堅苦しくないが、かといってエッセイともいうほど軽く流せるものでもなく、むしろ優れた物語として読めるものです。われわれ心理療法を専門とする者から見ても、一級の資料となっています。




 ぜひ実際に読んでみていただきたいと思いますが、とにかく正直に書いてあるのです。このことが本書の特徴であると思います。(実は最後の方に書いてあるのですが)その書き方は先崎さんの生き方の表現というか、「うつ病」に対する偏見や誤解といったものへの挑戦とも言えるものであったことがわかります。

 それが大変素晴らしいと感じさせられます。


 折しも世が藤井聡太さんのフィーバーになっていた頃なので、

「ふざけんな、みんないい思いしやがって」と怒り狂って、くそ、くそと大声を出したり、

「自分はもう棋士として将棋は指せないんじゃないか」とおいおい泣いたり、

後輩からかけられた一言をネガティブにとらえてしまって、ソファーを蹴っ飛ばしたり、


 しかもすごいのは、そういう気持ちが出てくるのは、うつ病がよくなってきているからなのだという自覚もある。一番症状のひどいときは、そういう感覚さえ起こらないということがよくわかっている。


 繰り返しますが、この本のすごいところは、1)症状についてかなり具体的かつ分析的に書いてあること(棋士らしい物事の見方と言えるかもしれません)、2)回復していく過程が時系列で整理されているところ(棋士らしい正確さと言えましょうか)です。

 例えば、うつ病というのは気持ちが沈む病気と思われていますが、先崎さんによれば、より具体的には「死にたくなる病気」と言えそうで、しかも、それは悲しいという感情によって死にたくなるというより、考えや感情といったものは固まってしまって、ふと電車に飛び込んでしまいそうになる、そういったものだということが具体的に描かれています。

 また、回復過程についても、日内変動のこと、何かイベントがあってその次の日の疲れ具合、さらにより長期の症状の変化などが日付もわかるくらいに正確に描かれていて、非常に参考になります。


 いずれにしても、これは本当に「うつ病」という事態がよくわかる本になっている。すなわち、うつ病が誰でも罹りうるものであること、単なる一時的な気分の落ち込みとはまったく異質なものであること、アップダウンをしながらも時間をかけてよくなる病気であることがわかります。


 何より先崎さんが回復して、今では将棋界に復帰してまた将棋を指されているということも、われわれに勇気を与えてくれるものとなっています。


 ぜひ読んでみて欲しい良書です。

Ueda Lab (心理療法研究室)

とある大学で心理療法の研究と教育をしています。

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