『私の消滅』


 中村文則氏は、わが国はもちろん、海外でも高い評価を受けている作家で、愛読されている方も多いのではないでしょうか。久々に出た本格派というか、まだお若いことを考えると、大変な期待を集めている小説家という印象です。また(賞を取ったからよい作家ということでは必ずしもありませんが)、数々の文学賞を受賞していることでも知られています。

 あまりマスコミに出られる方ではないようで、そのあたりも個人的に好感をもっています。


 中村氏の本は他にもいくつか読みましたが、最近の小説によくあるポップな雰囲気はなく、むしろ全体のトーンは重いのですが、物語を進める力が強く、背中を押されるように読み進めてしまう、そのような本が多いような印象を受けています。何かで「純文学と本格ミステリーの混在」という評価を見ましたが、言い得て妙でしょう。


『私の消滅』 中村文則著(2016年 文藝春秋)


 この本も、Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受けています。

 私は文庫本になったこの本を書店で偶然見つけて買ったのですが、結果的に、今の私の仕事において大変重要な学びとなるものでした。そのことは後で少し述べるとしまして—


 この本は、心療内科の医師である主人公が、女性の患者と恋に落ちるという話ですが、恋に落ちるという表現は仕方なく使っているので、そういう表現ではこの本の性質を全然とらえていないと思います。むしろ性や暴力、そこから行き当たる生と死といったものがこの本のテーマでしょう。

 私には、村上春樹氏の『ノルウェーの森』や『ねじまき鳥クロニクル』を思い起こさせるものでした。


 途中、重くて、読み進めるのが辛いほどでしたが、先にも述べたように物語を進める力が強いので、否応なく前へ読み進めてしまうといった感じでした。よい小説である証拠だと感じます。


 これ以上は内容にかかわるので書けませんが、表面的には、治療者が患者と個人的な関係をもつという意味で、「多重関係」といわれる倫理的問題を描いたものと見ることも可能です。私の専門となるカウンセリングの領域でも大きなテーマであり、そういう意味で身につまされるものでした。


 興味のある方は一読されることをお勧めします。


 さて、本書は今の私の仕事においても大変重要な学びとなるものだったと書きました。

 私は今、「カウンセリングの倫理」について書くというある仕事に向き合っているので、まさに治療者ー患者関係が扱われたこの本はいろいろな示唆を受けるものでした。


 カウンセリングの倫理とは、例えば「カウンセラーはクライエントと恋愛関係、まして性的な関係をもってはならない」といったことを意味しますが、しかし、もちろんこれは教条的なもので済む話ではありません。それで終われば、こんな簡単な話はないのです。


 カウンセリングの倫理というのは、倫理綱領に書いてあるような倫理基準を知っていて、それに当てはまるか否かで行動を選択すればよいという問題ではない。むしろ、その倫理基準を十分知っていて、にもかかわらずそれからはみ出さざるを得ない場合をいかに生きるかという問題なのです。「カウンセリングには守秘義務という倫理規定がある」という話ではなくて、「クライエントから『死にたい』という話を聞かされたとき、守秘義務だからといって黙って抱えておくことができるか」という問題なのです。

 その意味では、『私の消滅』は主人公が進んでそれに取り組んでいるという意味で、考えるよい題材と言えるものでした。


 少し余談になります。


 河合隼雄先生は『とりかえばや、男と女』(1994)という本で、この倫理に関する問題に触れています。

 平安時代の作とされる「とりかえばや物語」は、主人公となる男女が性を逆転させて生きていく物語で、かなり変わった物語と言えるでしょう。こういったお話が平安時代に書かれたという自体特筆すべきことだと考えられます。ただし、あまりに変わった内容であったため、「とりかえばや物語」は近年まで、変態的とか、不道徳な書として批判されてきたという経緯がありました。

 河合先生は、それを人の内的なダイナミクスとして読み替えて、評価し直しました。すなわち、男女という性の問題だけでなく、精神と肉体、父と母、意識と無意識といったものも含めた<二項対立的なものを本質的に含む心の構造>を問題にしたのでした。つまり、私たちは「男性」として、「女性」として、一応表面的には生きているように見えるのですが、心の構造としてはその対となっているものも含んでおり、その両者の(心の中における)ダイナミクスこそが個性を作り上げているのだ、という考えです。

 ですから、逆転した性を描いても、不道徳だという批判はまったく当たらないとしたのです。


 また、河合先生はゲーテの『親和力』という作品も用いながら、愛するということに倫理はあるのか、あるとすればどのようなことかを考えています。

 『親和力』は、親族である二人の女性(性格は対照的)と友人である二人の男性との話ですが、結婚関係と恋愛関係が交差して複雑な四角関係ともいえるような物語になっている。当時の感覚で言えば「人倫を破っている」物語と言えるものです。

 当時の西洋の規範意識で言えば、男女の関係は結婚が絶対であるということになります。逆に、結婚しているのにその相手以外の人に恋愛感情を抱くなどというのは、道徳に反した行いであるということになります。しかし、丁寧に考えてみるならば、結婚生活だけに閉じこもってまったく周囲に関心をもたないのはもったいない生き方で、結婚をしていてもそのような情愛を抱くということ自体は生き生きとした心の動きとして認めてよいのだというふうに考えることも可能です。言い換えると、自分を律していくことと生き生きとしたパッションの共存です。これを簡単にアクティングアウトしないで、内的なこととして大切にしていくことが重要なのです。


言うなればどちらも正しいのである。どちらも正しいと言えそうな相反する考えの中で、どちらに片寄ることもなく、葛藤に耐えながら、自分にふさわしい足場を築き上げていく、その姿勢を倫理的と言いたいのである。

(河合, 1994)


 余談がずいぶんと長くなってしまいました。


 『私の消滅』も表面的に見れば職業倫理を破ったというお話に過ぎないかもしれません。しかし、私には決してそんなに簡単に言い切れる話には思えないのです。その思えない部分を『私の消滅』は大変よく描いているのです。治療者が患者に抱いてしまった恋愛感情とその葛藤が見事に描かれているのです。


 本来のこの物語の読み方とは少しずれているのかもしれませんが、とても考えさせられることの多い本でした。


 そして私は今、そういったカウンセリングの倫理にかかる割り切れない側面を書きながら、この臨床という営みの本質に近づけないか、と考えています。しかし、(全く当たり前ですが)苦戦しています…。



Ueda Lab (心理療法研究室)

とある大学で心理療法の研究と教育をしています。

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