子どもの病気について他者に話すときに考えること


 「私、今こういう病気で辛くて・・・」「私、昔こういう病気をして大変だった・・・」

 病気をした人同士でその病気について話している姿をよく見かけます。そういえば、最近自分も、友人とお酒を飲むときに身体の不調のことをよく話題にしているような…(苦笑)。


 だから、その気持ちは実感としてよくわかります。私も、何か病気をしたら(あまり大きな病気をしたことはないのですが)、同じような病気をした人の話を聞きたいですし、何かアドバイスがあればして欲しい。同じ経験をした人がいると知るだけで孤独感は多少なりとも軽減されるでしょう。何より、その病気の辛さを知っている人に話すわけですから、他の人に話すより「わかってもらえる感じ」が強く、聞いてもらえるだけで楽になると思います。


 専門的に見れば、このような機序はピアカウンセリングを行っていると考えることができるでしょう。


 もちろん、いわゆる通常のカウンセリングでは、このような方法は(原則的には)とりません。カウンセリングの幅が狭くなるためです。カウンセリングが仕事として成り立ちうるためには、同じ病や苦しみをもたずとも話を聞くことができなければなりません。と言うよりも、そもそもカウンセリングの仕組みは上記のような「気持ちの楽になり方」とは違うところを狙っているのです。すなわち、われわれカウンセラーは、自分の体験でも非常に深く掘っていけば(ここが簡単ではありませんが)、クライエントが言われている辛い体験とどこかで共通する部分が出てくることを知っているので、必ずしも同じ体験をしていなくてもお話を聞くことができるし、またその方が治療的に有効なのだと言えるのです。

 「人間であることの哀しさ」「生きるということの不条理」といったものに触れるからでしょう。




 最初から少し話がそれてしまいました。


 いずれにしてもピアカウンセリング的な場の重要性は注目されてきています。

 たしかに、大きな病気であればあるほど、その病気をしたことがない人に話しても全然伝わらないし、むしろむなしい、ということはある。なので、同じ病気をした人同士で話すと、ものすごくほっとする。辛いこと、大変なこと、がいちいちわかるし、同時にわかってもらえる感じがします。いわゆる「当事者性」と言われるものです。


 このことは、自分の病気だけでなく、家族の病気やその看病・介護でも同じです。そういった意味で家族も「当事者」であるわけです。

 最近は、家族の病気の看病や介護に関係する当事者同士の場も盛んに作られています。「家族会」「親の会」や「認知症カフェ」といったものもあり、家族がその体験を語り合うことで多くの人が救われていることを知っています。

 一方で、最近いくつかの例を聞いて、また自身のことを振り返って、そのような当事者の場もなかなか難しいところがあるのかもなと思ったのでした。




 私の長女は肝芽腫という小児がんに罹って長く入院をしていました。ですので、当時「うちの子、ぜんそくが大変で—」と言われても、「それがなんだって言うんだ」「うちの子はがんで、生きるか死ぬかなんだ」と思ってしまう。これは申し訳ないけれど、そうなってしまう。口に出したりはしないけれど、そう思ってしまう。仕方がありません。もちろんぜんそくはものすごく大変で辛い病気であることは承知しているのですが、結局のところ(深く掘っていけずに)比べてしまっていたのだと思います。


 つまり、難しいのは、一口に病気と言ってもそれぞれ違う辛さを抱えたものであるし、たとえ同じ病気であったとしても、厳密に言えば細かいところで違いがあり、なおかつ、そのときの環境や条件で(例えば祖父母のサポートがあるかないか等で)病気のもつ意味合いがそれぞれ異なってくるということです。ゆえに、同じ病気を抱えた人やその家族の人と話しても、突き詰めると、やはり私の辛さは私だけのもの、ということに気づかされてしまう。そういったパラドックスがあると思います。


 先日、妻と話していて、この問題について「ほんとに難しかったね」となりました。

 先に触れたように私の長女は肝芽腫という小児がんに罹って長く入院をしていました。病棟は小児がん病棟でしたから、同じ小児がんを抱えた子どもの看病をしているお母さん方と話す機会が多くありました。そのことで、ものすごく支えられたのです。


 ところが、妻が言うのは、「同じ小児がんという病気で話をして、わかること、わかってもらえることがあっても、結局はそこで比べてしまっていた」というのです。以前同じ病気を抱えた子どもたちのグループに参加したとき、みんなうちの子より病状が軽く、うらやましく見えた。結局自分から情報提供をするばかりで得るものがなかったというのです。


 そして、これは立場が違えば、ただちに逆にもなるのです。長女は小児がん病棟に長く入院していましたが、そこである親御さんから言われたのは「目に見えるがんでよかったね」という言葉でした。これはまったく悪気はないのでして、白血病の子どもに比べると手術という選択肢があるだけいいじゃないか、ということを意味していたのです。


 やはり当事者は、「支え合いつつ」も「同じではない」のですね。


 そして、わが子は、(肝臓をかなり切除しましたが)本当に幸運なことに治ったのです。同時に、私は同じ病棟で亡くなった子もたくさん見ました。

悲しいことでした。




 このブログの結論は、「一体病気のことについては、誰に話したらいいのだろう」ということです。

 別の言い方をすると、「体験を共有するということは、本当に可能なんだろうか」

 さらにひるがえって、「カウンセリングとは何か」「話を聞くとはどういうことなのだろうか」を考えたのでした。


 また、答えらしい答えのないブログとなりました。

Ueda Lab (心理療法研究室)

とある大学で心理療法の研究と教育をしています。

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