恩師を囲んで
当たり前ですが、お世話になった先生がたくさんいます。その中でも、昔いろいろと教わり、今でも機会があれば意見をうかがいたいという先生がいます。単にお世話になったというだけではなく、考え方の指針を求めているような存在。
そういう人を恩師と呼ぶのかもしれません。
自分にとって何人かいるそのような先生のお一人に、永田良昭先生がいます。
先生には数多くの教え子や弟子筋の方がいらっしゃるので、私はその末席にもいないと思いますが、お世話になった度合いで言うと相当で、一方的に恩師としている先生です。
その先生と大学院修了以来ほとんど15年以上ぶりくらいにお会いすることができたという話です。
永田先生は学習院大学で社会心理学を専門として長く教鞭を取られ、その後学長まで務められました。私は学部から大学院のときにかけて、先生の授業で学んだり、研究の指導をいただいたりしました。
先生は当時も相当ご多忙であったはずですが、私の論文にいつも朱で丁寧なコメントを入れて下さいました。
私は結局、先生から、知識というより〈考える仕方〉を学んだのだと思います。
そして、先生から学んだ〈考える仕方〉はその後も私を支え続けるものとなりました。
先生は、私が大学を離れ臨床の現場に出ても、(直接お会いする機会はもうほとんどなかったにもかかわらず)「研究だけは続けるように」「研究の進展はどうですか」とずっと声をかけ続けてくださいました。そういうのはとても珍しいことと言いますか、ありがたいことでした。その後、私が博士論文を執筆する最初のきっかけと励ましを与えてくださったのも先生でした。
一方的に恩師としていると言いましたが、大学を離れた後は、ほとんどと言うか、まったくお会いしていませんでした。博士論文執筆でさんざんお世話になったのに、ほとんどがメールか手紙のやりとりでした。
それがこのたび機会を得て、同じくお世話になった大学院の同期二人と合わせて、先生を囲んで食事会を開くことができました。
まさに15年ぶりくらいの再会でした。
奇跡のような会でした。
こういうことがあるのが、生きていることの面白さなのだなと実感した次第です。
ご高齢でもありますし、寒い日でしたし、場所も少し遠方でしたから、お呼びだてするのも本当に気が気ではありませんでした。
ところが現れた先生は、見た目もまったく変わりないどころか、大所高所からの評論も、ときどき毒の入ったご指導も(苦笑)、学生時代に会ったときのまったくそのままでした。そして、飄々とお酒も飲まれる。
ほとんど驚嘆しました。
さらに先生は今でも本を執筆中で、ときどき大学に来て書庫に入っているというのですから、同期二人と「一体どうなってるんだ?」と(笑)。
私が少し前に出版した著書にも目を通して下さって、「こういう書き方はよかった」などと言ってもらえると、舞い上がってしまうわけです。
私が書きたかったテーマの真意をきちんと見抜いて、すべてお見通しという感じ。すごいなあ、専門領域も違うし、長くお会いしていないのになんでそんなことがわかるのだろうと思ったのですが、これはよく考えたら当たり前で、こちらが先生の考えるスタイルに影響を受けてきたわけですから、先生には見抜けて当然なんですね。
先生は食事の最後にふと、「今の学生さんは自分の可能性を自分で決めてしまっているようで危惧している。」「以前の学生さんは少しおだてたら発憤して、自分の思ってもみなかった可能性に気がついて挑戦していたように思うが…」とおっしゃいました。
たしかにそういう気もするなあと。同時に、あ、そうか、自分たちも先生におだてられて発憤したタチだったのかと、苦い笑みがこぼれました。
もういい歳のわれわれですが、先生の前に出たら平身低頭、中学生のようのものです。
とにかくうれしく、楽しい会でした。
ほんとうに自分は「先生」や「師」に恵まれているなあと思います。
実際私など放っておくとすぐに人から受けた恩を忘れて一人で大きくなったような気になるタイプですから、時々自分にとって大切な先生を思い浮かべておかないといけません。
永田先生だけでなく、ほかにも自分にとって大切な先生がいて、いただいた良い言葉や面白いエピソードもあるので、自らを戒めるためにも(笑)都度都度ブログに書いていきたいと思っています。
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