第29回 心の健康会議
<第29回 心の健康会議>に参加してきました。
今年は静岡市で開催されました。
臨床心理士の研修ポイントとして認定される研修なので毎年応募しているのですが、くじ運悪く、これまでなかなか当たりませんでした。
今年はめずらしく当たりまして(笑)、ありがたく参加してきました。
今年の講演は、北山修先生のお話でした。
よく知られている通り、北山先生は精神分析的な観点から、日本の浮世絵を丁寧に調べ、その中に「母子がはかないものを一緒に眺めている構図が多いこと」に気がつき、それを「共視」と呼んで概念化しました。共視は、わが国の母子関係の特徴をあらわすもの、ひいては心理療法の原初的なあり方を示すものとして考えられています。
今回の北山先生の講演は、その「共視」に深く関係する『見るなの禁止』がテーマでした。
『見るなの禁止』とは、神話や昔話でよく見られる話型の一つで、「見てはならない」という禁止を与えられているにもかかわらず、結局はその禁止を破ってしまい、恐ろしいものに追われたり、大事なものを失ってしまうというストーリーをもつものを意味します。この『見るなの禁止』の話型はかなり古くから存在し、かつ世界中に遍在していることが知られています。
わが国ですと、「夕鶴」(鶴の恩返し)がもっともイメージしやすいでしょうか。
今回の北山先生のお話で興味深かったのは、その『見るなの禁止』の日本的特徴についてでした。
先ほど『見るなの禁止』の話型は世界中に遍在していると言いましたが、その中でももっとも古いものの一つとして、古事記の国生みの神話があげられます。
これは伊邪那岐命(イザナキ)と伊邪那美命(イザナミ)の二神が国を生んでいくお話ですが、その中でイザナミが死んだ後、それを悲しんでイザナキが黄泉の国まで逢いに行く場面があります。そこで、イザナミもこの世に帰りたくなり、黄泉の国の神と相談して、帰ることに決めます。ただ、イザナキに対し、ちゃんとこの世に帰り着くまで自分の姿を見ないようにとお願いするのです。
そして当然にというか必然的に、イザナキはこの約束を守ることができず、イザナミを見てしまいます。
(死んでしまっていたわけですからやはり)イザナミの姿は恐ろしく、イザナキは逃げ出します。イザナミは追いかけますが、イザナキはヨモツヒラサカという坂に巨石を置いて、遮ってしまいます。それでついに完全に別れてしまうというお話です。
考えてみると悲しいお話です。
さて、イザナキとイザナミのお話自体は有名なので、それはそれとして、特に印象的だったのは、この場合の「禁止」のかけ方なのです。
私はこの古事記のお話でも『見るなの禁止』は絶対的な約束として提示されていると思っていました。しかし、北山先生のお話ではこの場合の禁止は婉曲的な禁止なのだそうです。イザナミはイザナキに対し「我をな視たまいそ」と言うわけですが、この「な・・・そ」は婉曲的否定の表現であるということがその理由です。
「決して見てはならぬ」というより、「見るというようなことがないようにお願いします」くらい(?)だったのでしょうか。
私は『見るなの禁止』について臨床心理学的な関心から自分としていろいろ調べていたつもりですが、この点については知りませんでした。
そして、これはもしかしたら、他の国々の『見るなの禁止』話型と異なる特徴的な点ではないかと思われます。
もう一点特徴的なのは、わが国の『見るなの禁止』が、やがて「夕鶴」のように「見られた側が静かに去って行く」というタイプに変化していくことです。(これを北山先生は「物語の発達だ」というふうにおっしゃったと記憶しています)
他の国では、あくまで追いかけて行って、追われる方が逃げ切るか殺されるかというような結末が多いことに比して特徴的です。
「だから何?」と言われればたしかにそうで、細かいところかもしれません。
ただ、心理療法の領域では、この「見てはならないもの」は母性の否定的な側面を意味する、あるいは日本人にとっての無意識を意味するという文脈で考えられることが多く、ゆえに『見るなの禁止』の顛末は日本人の自立を考えるときに非常に重要な視点を与えるものなのです。
日本人にとって、母性の否定的側面(あるいは無意識)というのは、絶対見てはならないというよりも、むしろ「ちょっと見て」(笑)という感じに誘われるものであり、またそれに直面した後も、単に逃げて関係を断絶するというよりも未練を残すような態度で別れるというものなのではないでしょうか。
これは日本人のありようをよく示しているように私には思われますが、いかがでしょう。
0コメント