大学とはゼミである


「大学とはゼミである」


 茂木健一郎さんがTwitterか何かで言われていた言葉だったと記憶していますが、これはその通りだと思います。


 私は、これまでごく普通の市井のカウンセラーでしたが、縁があって大学教員になりました。大学教員になってごく少ないよかったことの一つが(笑)、ゼミをもつことができたことです。

 学生のみんなと長期にわたって密度の濃い議論ができ、また学生みんなの成長を身近に感じることができるからです。




 ゼミというのは、狭い意味でいえば卒業論文(修士論文)に向けた研究をおこなうための演習の授業を意味していますが、私は二つの点で重要だと考えています。


 一つは、あらかじめ答えのないものに取り組むということです。これは別の角度から言うと、自分で問いを発見してきて、自分でそれに答えるということです。問題が与えられ、答えも教わる、というような態度から抜け出すためには、またとない機会です。自分がやっていることがクリエイティブな作業なのだという気づきが大きいのです。


 もう一つの意味は、ゼミの仲間から刺激やサポートを受けつつ進めていくことの意義です。クリエイティブなものは自分の内だけ見ていては生まれてきません。教員から一方的に指示を受けるのではなく、仲間内で議論しながら作り上げていくとき、その研究は有意義なものになる可能性が高いですし、そのプロセスから得るものが大きいのです。


 上のようなことを重視していますので、私のゼミは、よく自由だと言われます(中には「ゆるいゼミだ」と言う人もいますが(笑))。私はできるだけゼミの学生が主体的に取り組むことができるように、そのためにあまりあれこれ指示しない方がいいのかなと考えている程度ですが(でも、結構あれこれ言ってしまうのですがー)。

 いずれにしても、彼らのもともともっている問題意識が「よき問い」になるように、ありきたりのものを使うのではなく、皆で議論しながら一から考えていっているつもりです。


 「よき問い」が立てば、それだけでゼミで研究をおこなう意義があったと言えるほどです。




 昨今、「アクティブラーニングだ」「反転授業だ」と盛んに言われていますが、ゼミをしっかりやれば、ほとんど十分ではないかと思います。ゼミの形式の中に、知識から、方法論から、批判的思考から、ディスカッション、グループワーク、プレゼンテーションまですべてが含まれています。


 ゼミで身につくのは、そういった「学びの全体」、すなわち「ものの見方」「考え方」ではないかと思います。

 私も、問題の見つけ方や論証の仕方から文体まで、いまだに大学時代に指導を受けた先生の影響を受け続けています。実は、ゼミ生には(特定の理論ではなく)そういった考え方の癖みたいなものを伝染させたいなあと目論んでいるところもあるのです(笑)。


「大学とはゼミである」

そういった意味でも言い得て妙です。




 今年は新型コロナウイルスの影響で、ゼミもほとんどオンラインになってしまいました。

 自分なりにめいっぱいやったつもりですが、ゼミに所属した学生のみんなに十分な学びを提供できたか自信がないところもあります。


 その中でも学生のみんなはゼミ以外でも互いに上手く情報を共有したり、オンラインの条件の中で調査方法を工夫したりしながら、よい論文やレポートを書いてくれました。特にアイデアのユニークさはこれまでと変わらず、優れたものがあったように思います。

 また、彼らのディスカッションの仕方や文章表現を見ても、1年前とは比べものにならないほどの伸びを感じます。


 ゼミでの学びは、長い目で見て、きっと彼らの人生を支えるものになってくれると信じています。


 過去のゼミ生にも今年のゼミ生にも、ゼミに入ってよかったと思ってほしいなあ(笑)。


Ueda Lab (心理療法研究室)

とある大学で心理療法の研究と教育をしています。

0コメント

  • 1000 / 1000