教養としての<臨床の知>
現代は科学的であるということが非常に力をもっている時代です。したがって、ものごとを捉える目も「普遍的」「論理的」「客観的」であることが尊ばれます。実際われわれの生活は、そのような目によってものごとを捉える<科学の知>によって発展してきました。その恩恵は疑いようのない事実です。しかし、われわれがものごとを捉える目は、そのような科学的な視点だけではありません。
例えば、私の腕時計を説明するのに、「日本製で」「デジタルで」「1万円で」という説明は、私という個人から切り離された客観ですので、誰にでも通じ、意味をもちます。しかし、「この時計は、彼女からもらった大事な時計で、もう古くなっているけど捨てられないんだ」と言ったらどうなるでしょうか。これは「私と時計の関係」を説明しているのであって、客観性を持ち得ません。まさに他の人には「関係のない」お話です。ゆえに、これまではそのような説明はあまり意味がないものとされてきたのです。
しかし、本当にそうでしょうか。場合によっては、そのような「私と時計の関係」のお話こそ大事になる時があるのではないでしょうか。
(それを大事に聞くのが、心理療法というものでありましょうー)
現代ではあまり価値が認められづらくなった「偶然に起こった出来事」や「一回限りの出来事」、「私にとっては大切な出来事」について、身をもってかかわりながら理解するといった捉え方もあるのです。
それを中村雄二郎は<臨床の知>と呼びました。
非常に優れた提案であったと思います。
中村雄二郎の<臨床の知>というパラダイムは、一時期世間を席巻しました。しかし、最近は「臨床の知? 古いね」「まだそんなこと言ってるの?」と言われることもあります。(私は、以前ある大学の採用面接で実際露骨に笑われながら、このようなことを言われました。行かなくて良かったです(笑))
私は<臨床の知>という考えが古くなったとは思いません。むしろ科学的なものごとの捉え方が大事な現代からこそ、それ以外のものごとの捉え方についてもよく心に留めておく必要があるように思います。
私は、今の若い人たちに期待をしていますから、この<臨床の知>というものごとの捉え方のもつ意義を伝えたい。そう思ってきました。科学的なものの見方は放っておいても身につく時代だからこそ、そうでない「世界の切り取り方」の面白さを、できるだけ多くの学生に伝えたいと思ってきました。
(<臨床の知>というと、いまだに単なる「経験至上主義」か、よく言って「医療従事者の態度」程度のものと思っている人がいかに多いことでしょう)
そのため、前職の大学で「教養科目」として、この<臨床の知>を伝える一連の授業をおこなってきました。試行錯誤をしながらでしたが、課題や必要な工夫も少しずつ見えてきました。
そこでこのたび、若い人たちに教養として<臨床の知>を伝えることの意義と、そのための工夫や学生からの反応をまとめ、論文として公刊しました。
新しい知見を提出する「大きな」研究論文ではなく、授業実践をまとめた小さな論文ではありますが、自分として大切な論文になったような気がします。
もし関心のある方がいらっしゃったら、下記のリンクからご覧いただければと思います。
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