日本心理臨床学会参加記(2018年8月)
日本心理臨床学会に参加してきました。今年は神戸で開かれました。
昨年の学会は私にとって非常に大きな意味のある大会でしたが、今年は何も役割がなく(大体いつもないのですが(笑)ー)、気楽に参加することができました。
今年の学会は、公認心理師試験の日程が近いせいか、例年に比べるとかなり参加者は少なかったような印象を受けました。
人が少ないだけでなく、これまで感じられていた熱気のようなものもほとんど感じることがありませんでした。
ただ、私は、これくらいでちょうど良いのではないかなと思います。学会が盛況で、熱気があることは喜ばしいことですが、あまりに鋭く・熱い議論ばかりだと腰が引けてしまう私のような人も一定数(実際にはかなり多く)いるように思われます。であるならば、むしろこれくらい「ぬるい」(笑)感じの方が、かえっていろいろな立場の人を広く吸収できるのではないかという気がします。
会員が多く、研修的な意味合いももつ本学会の場合は、そのような「温度」が適しているのではないかー。本学会は、そのように役割を変えつつあるのではないかー。
そのようなことも考えました。
今年の学会では、ポスター発表による調査研究や口頭発表による事例研究を聞いてきました。
具体的な発表内容について触れることはできませんが、特に、若い方の真摯な取り組みをいくつか拝見し、大変勉強になりました。
私が参加した発表では、フロアの参加者が若い臨床家の事例報告を温かく受け止め、生産的なコメントを返している様子を何度も目にしました。そのような事例報告のあり方がまだ維持されていることに、本学会の良さをあらためて確認した気持ちがしました。
発表者はそれなりの覚悟を持って事例を発表するものです。また、その発表者の背景にはクライエントがいて、当の発表者を通してクライエントにまで発表の影響が及ぶことが考えられる。それほどの大きな意味をもつのが事例発表だと考えられます。
したがって、基本的にはサポーティブな態度で事例発表を聞くということがこの領域のなんとなくの共通認識だと思います。(しかし、実際には「うーん、どうかな?」と思う内容もあり、その場合の表現の仕方が難しいのですが)
これは実証的な研究分野の学会における<発表者とオーディンスの関係>との違いだと思われます。
解釈の正解不正解を争うのではなく、また仮説結果の正確な検証を第一義にするのでもなく(そもそも臨床ではそのような操作的な仮説検証は不可能です)、それぞれが「次につながる」聞き方をしている。
そして、それこそが事例研究の大事なところなのです。聞き手もどこか深いところで「私のこと」と思って聞いているから、個別で一度きりの事例であっても、聞き手にとってものすごく意味があるのですね。
ときに、(しばしば大学教員に見られますが)事例の流れに沿っていないにもかかわらず、ある理論や解釈を上から当てはめるように指摘する人がいますが、感心しません。そういうときは、なんとなく発表者も「?」となり、フロアもキョトンとなっているのですが、「えらい先生が言っているのだから仕方ない」となんとなく同意しているような雰囲気があります。
私はそういうものは耐えがたいと感じます。
最初で述べました学会の「ぬるい」雰囲気の良さと矛盾しますが、そのようなコメントには、発表者が(自分が違うと思えば)はっきりと異を唱えたほうがよいと思います。
そのコメントが正しいかどうかは確かめられませんが、発表者やフロアがしっくりきていないという点で、少なくともズレている(発表者やフロアが気がついていない意見というものはもちろんあり得て、また大事ですが、それはやはり適切であれば、言われた後、どこかしっくりきた感じがするものです)。そもそもそのような発表の場の雰囲気が感じ取れなくなったら、臨床家としても終わりでしょう。
将棋が強くなるために、プロ棋士は実際にタイトル戦が行われている会場まで出向いて、対局者と同じ時間同じ空間で考えるということをする人が多いと聞きます。
対局と言っても、内容は「棋譜」に過ぎないので、その棋譜があれば、プロ棋士は家で一人でも検討できるのです。対局の様子が見たければ、今はデジタルな時代なので、リアルタイムで動画も配信されています。しかし、多くの棋士は、やはりわざわざ会場に出向いて、その場で、見学に行った他の棋士たちと一緒にその棋譜(この場合「事例」と言ってもよいでしょう)を検討するのです。それが一番勉強になると言うのです。
私は学会に参加するということは、そういったことに近いのかなと思っています。
0コメント