心理療法における個別のアプローチと共通するアプローチ
夏休みに地元に帰って、人が少ない(全然いない)町や川沿いの道を何度か散歩しました。歩きながら、いつも車や電車に乗って移動するばかりでまわりの景色など全然見えていなかったな、歩きながらぼんやりと考え事をする時間もなかったな、とあらためて思いました。
さて、そんな地元の風景を見つつ散歩をしていたからかもしれませんが(?)、近年の心理療法におけるアプローチの目まぐるしいほどの多様性について考えました。
精神分析の対象関係論の中の○○派とか、Jung派の中のさらに○○派とか、CBTの○○法とか第三世代のCBTとか、ACTとかAEDPとか…
百花繚乱、よりどりみどり、ちょっと目眩がします。
もちろんこの状況自体は自然なことで、基本的にはよいことだと考えられます。
現代の心理療法は理論が深化し、技法が細分化していっている状況ですから、より個別の専門性が重要視され、クライエントもそれを求めるでしょう。一つの領域の発展とはそういうものかもしれません。
逆に、異なる専門的な心理療法アプローチを横断する共通性というか、ベースとなる技法的アプローチというものはあるのでしょうか。
この問題は考えると実は難しくて、「当然あるのだ」「受容と共感がそれだ」、あるいは「クライエントの主訴解消を目指すという意味では同じだから、専門性の違いとはその方法の違いにすぎないのだ」という人もいれば(それらはわりと正しそうに見えます)、よくよく考えてみると、各心理療法の専門的アプローチはその背景とする人間観まで異なるので、そこに共通性やベースとなるものを求めることはできず、まったく別々に存立しているのだというふうに考えることも可能です。例えば、心理療法を通して主訴の解消を目指すのか、人格的成長を目指すのかというのでは、単なる方法論の差異には還元できない問題があります。(急いで付け加えなければなりませんが、まったく別々に立っているということと社会で共存できるどうかは別問題で、別々のものであっても共存できるはずです。)
ここでは特定の専門的アプローチのもつ心理療法的意義ではなく(そのようなことを議論する能力は私にはありません)、個別の専門的アプローチと共通となるアプローチがどのような位置関係にあるのか、(一応共通性があると想定して)考えてみたいと思います。
まず、心理療法における専門性というのは(ちょうど田舎の道をとぼとぼ歩いていたところですから、それになぞらえると(笑))、およそ、目的地までの地図を持って、クライエントを先導し、クライエントが道を行き過ぎたり間違えたりすれば、また別のルートを紹介するナビゲーションのようなものと考えるとよさそうです。すると、アプローチの個別性はナビゲーションのあり方、つまり目的地の設定方法(目的地をどこに設定するかも自動で決まるものではないでしょう。例えばリラックスしたいというときに近場の銭湯に行くのもよい設定ですし、遠くの温泉地に設定するのもよいでしょう、そういう意味で)や経路の取り方(必ずしも最短距離でとか高速道路を利用して、というものでもないはずです)の違いということでしょうか。
いずれにしても心理療法における個別のアプローチとは、目的地の設定やルートに関するものであることは間違いないのではないかと思われます。
では、個別の専門的アプローチを横断する心理療法的共通性(ベースとなるアプローチ)はあるのかということですが、それは上のアナロジーを使えば、目的地や経路選択の違いではなく、(目的地の方角程度は共有しつつ)一緒に歩きながらクライエントが周りの風景を見て感じていることを大事にする態度なのかなと思います。ナビではなく同行していることそれ自体というイメージです。
少し角度を変えて表現すると、旅の醍醐味に「非日常性」があるとすると、目的地にたどり着いておいしいものを食べるとか、見たこともない大自然を見るという意味での「非日常性」ではなくて、旅の途中で寄り道したり、車の中で音楽を聴いたり、川とか山を見て物思いにふけったり、道の駅で野菜を買ったり、その土地の人と話したり、そういうプロセスの中で感じる「非日常性」を一緒に味わうことが、(個別の専門性を越えた)心理療法の共通性としてあるのではないかと思います。上手く言えませんがー。
ここ「一緒に味わう」というところもポイントで、専門的アプローチが「ナビ的」な場合はあくまで主体はクライエントにありますが、心理療法の基盤にあるアプローチは、主客という視点がかなり消えているものではないかと思われます。
逆に、目的や手段では似ていても、この「クライエントが途中の風景を見て感じていることを一緒に味わう」というものがないものは、少なくとも「心理療法ではない」と言うことができるのかもしれない。(これも急いで付け加えなければなりませんが、心理療法ではないものがあってよいのは言うまでもありません。)
夏休みに田舎で人気(ひとけ)の少ない町中や、川とか山を見ながらとぼとぼ歩いていたからそう思ったのかもしれません・・・(笑)。
この共通性を考えることは「心理療法とは何か」という大きな問いの答えにもなっていると思うのですが、あまりそのような語られ方を見かけません。
昨今この領域で目にする対立や分断は、この共通性を見失っているために起こっているのではないかと愚考しています。
もちろん「その道中で周りの風景を見て、クライエントが何か感じていることが大事」と言っても、個別の専門性がないと、クライエントから「どこに向かっているのでしょう?」「いつまでたっても到着しませんがー」と言われてしまうでしょう。
しかし逆に、個別の専門性だけにこだわると、目的地に導いて、クライエントに「さあ、着きましたね。」と伝えても、「ありがとうございます、助かりました。」とはならず、「はあ、まあたしかに着きましたけど・・・。」となることもあるように思います。
おそらくこの共通性と個別の専門的アプローチが上手く融合すると、目的地に向かって周りの風景を見ながら歩いているうちに、「あとは自分で行きます」と言われるような形でセラピーを終えることができるのでしょう。
河合隼雄先生はこの共通性の部分が抜群に上手で、だからまねができずに、「大人の庄屋芸」と言う人もいたやに聞いています。最近は(いわくハウツーになりにくい)この共通部分はもう不問にして、個別の専門的オリエンテーションの方で(そちらは身につけやすいですから)すべてをまかなおうとしているように見えるものもあります。にもかかわらず、実際は、多くの心理療法家はこの共通部分で効果を発揮しているはずなのです。
いずれにしても、心理療法を自分が受けるなら、この「途中の風景」が十分に味わえるものがいいなあと思います。
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