どの層からその問題を切り取るか
奥山佳恵さんの次男さんはダウン症という障害を抱えておられ、その彼との生活は本にされています(『生きてるだけで100点満点!』 ワニブックス)。
芸能人の方が書いたということなどは余計な情報で、障害を抱えた子どもの子育てをしているごく普通の母親が書いたものとして見て、とてもよく書かれています。
特に私が感激したのは、ご主人の書かれた「あとがき」で、障害を抱えた子どもが生まれてくるなどは考えもしなかった人の最初の率直な気持ちや、周囲の人からの一見励ましに思える一言への疑問などが、次男の彼を大事に思う気持ちとともに書かれています。
本以外にも、奥山さんのブログには、ダウン症を抱えた次男さんを含めた家族の生活が、まったく肩ひじ張らず、ごく自然な姿として綴られています。素晴らしいことです。
少し前には、テレビにも取り上げられたので、ご覧になった方もいるのではないでしょうか。私も拝見しました。
最近、奥山さんが、その次男さんの小学校就学に関して、特別支援学校や地域の学校の支援級などの選択肢について迷われた結果、いわゆる通常級に通わせることを決断したことをブログに書かれました。
そして、その決断に、多くの方が賛同し、また近い状況にある人たちから「勇気をもらいました」とコメントがたくさんついたそうです。
一方で、ある方がTwitterで、「はっきりと話すことができず、まだ2歳児程度の身体の大きさの我が子を見て、何で普通級か支援級か悩めるんだよ…。いやどうすんだマジで。こんな浅慮を『勇気づけられる行為』とか賞賛してる場合か?」とツイートをされ、今度はそのツイートに賛同するコメントが多く寄せられました。
さらに今度は、それらの意見に反対するツイートも多く流れるようになり、ネット上でやや感情的なやりとりが散見されるようになりました。
私はその一連の経過を、後になってある人のTwitterから知りました。
「障害児のクラス選択」というテーマ自体も私にとって重要ですが、さらにはこのような議論の流れ自体に、現代日本人の抱えるこころの問題として非常に重要なものが含まれていると思いましたので、今日はこの問題について私なりの見解を述べたいと思います。
(あまりこのような社会問題に触れるのは気が進まないのですが、両者の立場に大きなところで食い違いがあり、その食い違いの最も大事なところを意識しなければ、徐々に感情的な言い合いとなり、大変危険だと考えるためです。)
私の長女は障害を抱えています。
現在は、地域の小学校の支援学級に通っています。
小学校入学前に小児がんと、さらにその後急性脳症にもかかったため、当時は、いわゆる地域の学校に通うこともかなり厳しい状況でした。ゆえに、どうしても普通級に通わせたいと考えたわけではありませんでしたが、支援級でも、地元の小学校に通わせていただけたことは、本当にありがたいことだと思っています。
今は、ずいぶんと体も丈夫になり、友だちにも仲良くしてもらい、少しずつ成長もしてきました。
さて、今回奥山さんの決断に対して批判的なツイートをした方はおおむね次のような考えのようです。
すなわち、「遅れが大きい子は通常級で学ぶよりも、教師の目が行き届き、個別のサポートも手厚い支援級で学んだ方が、その子のためにも良いのではないか。」ということです。加えて、決して、差別的な意図をもってコメントをしたのではないのだということもわかります。
そして、そのような意見は「客観的に」非常に正しいと思わせる力があるのです。
書いた人もそのように信じて疑わないでしょう。そして、当事者を含め、奥山さんの決断に賛意を示した人たちの意見は、「主観的」で「冷静さを欠いた」エゴイスティックなものに映ったのだと思います。(だから「浅慮」という感情的な言葉を使われたのでしょう。)
(また、今<通常学級での>インクルーシブな教育が世界的な流れであると言っても、その人たちは納得されないと思われますし、おそらく事の本質を捉えたことにはならないでしょう。)
私も、(比較的軽い)ダウン症を抱えた子で通常級に進み、クラスの子から手助けをしてもらうことが増えたために、それまでできていた着替えや学習の準備などができなくなった子を知っています。
<ゆえに>重い障害を持った子は通常級より支援級が良い、と言えるでしょうか。
逆に、(非常に重い)自閉症の子で、発語も全くありませんでしたが、地域の子どもに知ってもらいたいというご両親のお気持ちで小学校だけは通常級に進み、その後、素晴らしいサポートで本人も伸び、クラスの子どもたちもまた成長した例も知っています。
<ゆえに>重い障害を持った子も通常級で過ごすべきだ、と言えるでしょうか。
私は、どちらの意見が正しいなどと言うつもりはありません。どうしてこのような食い違いが起こるのか、この食い違いの本質は何か、ということを明らかにしておきたいのです。
それは、一つは臨床心理学を専門とする者の使命のようなものであり、一つには障害を抱えた子どもの親としての気持ちからです。
知には二つの種類があります。<科学の知>と<臨床の知>です。<臨床の知>という考えは中村雄二郎が提案して以来有名になっていますが、まだ十分には理解されていないように思います。
むしろ、「知には二つある」ということを自体を認めない方も多くいるように思われます。
表現を変えると、「客観的」「普遍的」で「論理的」な、<科学の知>がこれまで非常に役立ってきたために、それ以外の知のあり方は「恣意的」「感情的」、あるいは単に「個別的」で、役に立たない、それどころか場合によっていかがわしく、有害であるとさえ思われているようです。
「臨床の知」とは、科学の知とは別の世界の切り取り方をしているだけで、決してオカルトではありません。「客観性」「普遍性」「論理性」の代わりに、「コスモロジー」「シンボリズム」「コミットメント」を構成要素にしているものです。言い換えれば、科学の知が「私」を切り離したことで客観性や普遍性を手に入れたのに対し、臨床の知は、「私」を切り離さずに世界とかかわることで、個々の場合や場所を大切にした「意味の世界」を相互作用のうちに読み取ろうとするものです(「臨床の知とは何か」 中村雄二郎)。
(注意しなければならないのは、「体験」したことがすぐに<臨床の知>ではない、ということです。体験したことでも「私」と切り離して捉えれば、<科学の知>による理解です。実習時間を増やすだけでは良い臨床家にならないのと同様です(苦笑))
さて、以上を踏まえて、この問題を整理したいと思います。
奥山さんの決断に対して批判的なツイートをされた方とそれに同意される方は、「その子」のために「正しい」方法を指摘したということだと思います。
この場合「その子」が「我が子」ではないということがポイントです。「私」から切れているので、客観的な意見が出せるのです。これを一歩進んで「冷たい」と言ってしまうと、かえってややこしいやり取りになってしまうので、そうではなくて単に「客観的」なのです。
「客観的」になっているために、その意見は非常に「正しい」という感覚を持たせます。
この場合の「正しさ」は「私」と切れた層での正しさですから、「一般的な」正しさと言って良いでしょう。
もちろん「私」から切れているので、誰にでも当てはまります。
この「一般的な」正しさは「絶対的な」正しさとは違うことに注意が必要です。遠くに出かけるときに方角として正しい、くらいの意味にとっておく方が良いでしょう。最後まで間違いのないルートとしての正しさとは違います。
一方で、遠くに出かける際に、どのようなルートをたどっても良いし、どのような道草を食っても良いのですが(それが面白みや個性でもあるのですが)、そのようなことは「正しさ」には含まれてきません。
「丁寧で、個別的な対応が障害を抱えた子どもの教育に必要」なことは正しいのですが、しかし、それはどのように達成しても良いのです。
他方、奥山さんの意見に賛意を示す人の多くは当事者(または保護者)であり、「私」と切れていないところからの意見です。その場合の意見の正当性とは、「私にとっては」正しいという意味です。
しかし、先のツイートの「正しさ」に負けないように、「私」が入っている世界にもかかわらず、必死に「一般的な」正しさを主張しようとしているのです。
件のツイートのから始まったやりとりは、「一般的な」正しさを「個別の」正しさでもあると主張しているか、逆に「個別の」正しさを「一般的な」正しさのように反論しているか、ということなのです。
いつまでたってもかみ合わないのは当然です。
そして、そのうちに、互いに「感情的に」なってしまうのです。
(非常に面白いのは、今回「支援級が正しいのだ」と主張している人の中に、「私」の子どもも本当は通常級に入れたかったのにできなかった、奥山さんがイレギュラーなことをしてケシカラン、という人や、通常級にいる「私」の子どもの迷惑になるからケシカラン、という理由で「一般的な」正解を押し立てている人が一定数見かけられることです。)
本当は「何が正しいのか」ではなく、「どの層からその問題を切り取っているか」なのです。
私は、<科学の知>をベースにしたもの言いや客観的なアドバイスは、その範囲では全く正しいと思っています。しかし、「私」がこのように生きるのだ、という領域では、必ずしも正解とはなりません。
まだ納得されない方がいるかもしれません。例えば、不登校の子がいるとして、「学校に行った方がいい。将来的に得策だ」というのは、一般的には「正しい」ですが、<その子>が学校に行って楽しいことを意味しませんし、長い人生で成功を保証するものでもありません。反対に「学校にいかないという選択をしている私」について考えることは、他の人には当てはまりせんが、(損得は別として)<その子>の長い人生を支えるものになる可能性があるでしょう。
大事なのは、「私」を入れ込んで(そのことをよく自覚して)世界を理解してみようとすることではないでしょうか。(通常級が正しいと思うなら、「私」もそれを主張して生きてきたのか、支援級が正しいと思うなら、「私」もその通り選択できるのか、というふうに考えてもよいでしょう)
奥山さんが、息子さんをそのように育てて行こうと「私」を賭けて決断したということを理解することに、もう少しわれわれが力を注いでみる。そのことで、(一般的な「正しさ」とは別のレベルで)深い層からわれわれに明らかになってくるものがある。
そのことを一般的な「正しさ」との葛藤の中で大事にするとき、それは個別なことでありながら、私たちをも支えるものになるのではないでしょうか。
奥山さんの決断に賛意を示した方は、そのような層で問題を切り取っているのだと、一般的な正しさを主張する人に言わなければならなかったのです。
以上を、一番適切に理解しているのは、当の奥山さんだと思われます。ですから、あのようなツイートが話題になっているにもかかわらず、普段通り、明るく過ごしておられるのだと思います。
<科学の知>への過度な依存と<臨床の知>の一知半解は、ともに日本人の暗い根から出たもので、わが国で心理療法を行なっていく際に常にテーマとなり続けている問題です。
少しブログが長くになりすぎました。
これも「私」がからんでいるからですね(笑)。
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