本覚坊遺文
人に何かを教える人のことを、「先生」と呼んだり、「教員」と呼んだりします。
同じ意味で「師」と呼ぶこともあります。
先生や教員と、「師」の違いは何でしょう。
『本覚坊遺文』(井上靖)
『本覚坊遺文』は、<師とは何か>を考えるのに、またとない本です。
井上靖の晩年の作品ですが、落ち着いた筆致で淡々と描いていきながら、かえってそのことが透徹した世界観とある種の枯れた味わいを生み出している、読み応えのある作品です。
この本は、侘び茶の創始者であり、当代一の芸術家である千利休を描いた作品です。ただし、形式的には、その弟子である本覚坊の日記・告白のような形で進んでいきます。したがって、主人公はむしろ本覚坊であり、利休が死んだ後、師のことを思い出している、そのありさまが描かれているのです。
(本覚坊という人は実在していたと考えられていますが、これは物語として提示されていることに意味があるので、そのような細部は問題とならないでしょう)
私は、今は大学で学校の教員を目指す若い人たちを対象に講義をすることがあるので、その意味で、教師になろうとする学生さんにはぜひ読んでほしいと考える本の一つです。(最近の教育大学は、<師とは何か>など考える暇がほとんどないようで残念なことですが―)
ただ、私は、『本覚坊遺文』を教員養成という視点から、ここに取り上げたのではありません。むしろ、私の専門である、心理療法という領域に引き付けて考えてみたいのです。
心理療法という営みは、科学の側面とアートの側面の両面があります(もう一つ宗教的な側面がありますが、ここでは触れないでおきましょう)。決して、科学的理解とそれをベースにした技術だけで成り立っているわけではありません。
このようなものは、すべてを教科書的に体系だって教わることはできません。何よりそれを行なっている「私自身の問題」がどうしてもかかわってきてしまう仕事です。
よって、心理療法はスーパーヴィジョンや教育分析といった、指導者との一対一の深い関わりの中で「対話的に」学んでいく必要があるものなのです。
私は、それを『本覚坊遺文』の本覚坊と師である利休とのやり取りに見るのです。
利休は秀吉から切腹を申し渡され、自害します。
彼から影響を受けた周囲の人々は、そこに至った経緯やその時の利休の気持ちなどを知りたいと願うのですが、本当のところは誰もわからず、推し量るのみです。
利休を師と仰ぎ、最後まで近くに仕えた本覚坊もその一人です。
この本の最初の方で、本覚坊の夢に師利休が出てくる場面があります。
その夢の中で、本覚坊は、さみしい感じのする長い小石の道を歩いています。そして「ああ、冥界の道というのはこのような道ではないか」と感じます。そのとき、ふと、かなり前の方をもう一人誰かが歩いているのに気がつきます。それが師利休です。
そうしている時、師利休は足を停めて、ゆっくりと私の方を振り向かれました。私がまだ付き随って来ていることをお確かめになったような、そんなときの感じでした。
暫くすると、師はもう一度振り向かれました。こんどは、もうここからお帰りなさい、そういうように私をお見詰めになりました。その時、私は素直に師のお気持ちに副って、ここから引き返そうと思いました。引き返した方がいいと思いました。それで師の方に深く頭を下げました。師に対するお別れのご挨拶でございます。
(『本覚坊遺文』より抜き書き)
本覚坊には、すでにこの世にはいない師利休の声がありありと聞こえ、それにしたがって生きているのです。
面白いのは、最後の方で、本覚坊がある集落を歩いている時、ふと、「ああ、この道は、あのときの夢の中の道だ」と気がつく場面があることです。そこで、自分は夢を見ているに違いないと思いつつ、同時に、自分は今でも師とお別れできずに、いまだに師の後をついて歩いているのだと感じるのです。
そして、「師よ。どこへいらっしゃろうとしているのですか!」と強く問うのです。
もちろん師から返答はありません。
あくまで淡々とした筆致で描かれていますが、心を打つ場面です。
詳しくは実際に読んでいただくのがよいと思います。
私は、師とは、直接微に入り細に入り教える人ではないと考えています。
むしろ、弟子と自認する者が、その師の影を「内在化させ」、そこにおいて「師だったら、こういうときにどう言うだろう」と仮想的に立ち上げるときに現前するような存在ではないかと思います。
もちろんそこには現実としての師が(かつては)いたわけですが、師が本当の師になるためには、弟子の中に内在化され、弟子自らが師の言葉を作り出せるような関係になることが必要なのではないでしょうか。
私は先に「対話的」と書きました。
そのような形で学べる関係が、師と弟子でしょう。
しかし、ここが面白いところですが、現実の師は一般的にはあまり細かいところまで言ってくれないのです(笑)。明示的に言わないのです。
そこで、弟子側は師と内的に対話せざるを得なくなります。
師が自身に内在するようになるのです。
そのようなものが「師」であり、だからこそ私たちを深いところで支え続けるのではないでしょうか。
『本覚坊遺文』はまさにそのような師がとても上手に描かれています。
心理療法家にとっての師と弟子とはそのような関係に近いことでしょう。
そして、心理療法という営み自体も、上手く行った場合、クライエントの中に治療者が内在化するような形になって、終結を迎えるのではないかと思います。
<師とは何か>という切り口は、心理療法的に大変興味深いテーマなのです。
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