中心から外れていたい

 人には、<その場の中心(多数派、主流派、メインストリーム)>に近づこうとする人と、<できるだけそこから離れ、周辺にいよう>とする人がいるように思います。


 私はどうやら後者のようです。

 もちろん、正直に振り返って、単に多数派、主流派になれないひがみじゃないかと(笑)思わないわけでもありませんが、それを差し引いても、割と意識的に「中心的なものから離れていたい」と思って生きてきたように思います。


 

 

 そのようなことを考えたのは、最近、自分のこれまでの研究を振り返る機会が何度かあり、どうも自分の研究のスタイルは、そのような生き方が影響しているのではないかと思い至ったからです。


 研究というのは、意義があると思われれば、どのようなテーマ・どのような手法でやってもよいのですが、ある程度流行というものがあり、ある時期、特定のトピックや特定の手法のものが多くなされることがあります。心理療法の領域では、「発達障害」や「トラウマ」、「他職種との連携」や「認知行動療法」などが現代の中心的なトピックと言えましょう。


 で、自分はと言うと、そういうテーマや手法であまり研究をしてこなかったなと思います。その結果、他の人から「何それ?」と言われるようなテーマで研究してみたり、少し古臭い手法で研究をすることも多かったように思います。



 考えてみれば、恥ずかしいようなところがあります。


 それ以上に、「中心的なもの」から距離を置くことは、一見、少し損でもあるように思われます。なぜならば、(研究について言えば)「中心的なもの」に近づいて研究をおこなう方が発表の場が多く、注目されることも多いからです。また、研究者集団の中では多数派、メインストリームとなって、発言力も増えるからです。



 しかし、自分が「中心的なもの」から距離を置いた仕事をしてきたのは(これまで意識して考えたことはありませんでしたが)、きっとそれなりの理由があるはずで、それについて一度きちんと考えてみることも意味があるように思います。


 たぶん私の場合は、まず「中心より周辺の方に面白いものがある」と考えていたように思います。つまり損得より、面白さ(何を面白いと感じるかがまた大問題ですが(笑))を優先させてきたのだと思います。


 加えて、私の感覚では、「中心的なもの」にはなんとなく暴力的なところがあり、そのようなあり方に対して拒否的な反応をしていたように思います。


 上手く言えませんが―。


 このあたりのことを、赤瀬川原平さんが書いていたなと思って、先日探しましたら、とてもぴったりとした文章で書かれていた箇所を発見しました。あらためて我が意を得たりと思った次第です。

 

中心点に向けては警戒が必要である。思考にしてもそうだと思う。

放っておけば、思考はすぐに原理に向かう。

そのまま放っておけば、原理に吸い込まれてしまう。

その原理の中心点で思考は停止する。


(赤瀬川原平『芸術原論』,2006)

 

 赤瀬川原平さんは、皆さんご存知の通り、「路上にある不要なもの」を写真に撮って『超芸術トマソン』と呼んで楽しんだ人ですから、上のような感覚をとても大事にされてきたことも納得がいきます。


 「中心から離れ、自由に思考する」ことはなかなか困難なことではありますが、心理療法という営みを実践、研究する者にとって一つの大切な態度になるのではないかと考えた次第です。



 むろん、この「中心から離れよう」とする態度は、研究に限らず、広く仕事や人付き合いなどにも当てはまる態度で、これがまた良し悪しなのです(苦笑)。

 例えば、職場においてはグループや派閥を避けるようになるわけですから、ほとんど誰にも相手にされない一人ぼっちのようなことになります。

 しかし、自由ではあります。


何事も中心軸に近づくと進まなくなる。

円運動の中心点は回転していない。

やはり動くためには周縁に逃れる必要があるわけである。


(赤瀬川原平『芸術原論』,2006)


 いずれにしても、私は自分がそのような生き方をしてなんとか今までやってこれたことについて、幸運なことだと感謝しなければならないようです(笑)。





「純粋階段」(『超芸術トマソン』より)

Ueda Lab (心理療法研究室)

とある大学で心理療法の研究と教育をしています。

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