『意識と本質』
良い本には、読んですぐにその言わんとしていることの大切さがわかるタイプの本と、読んだ時にはほとんど理解できず、何年か後に読み返して、「そうだったのか!」と理解できる本があるように思います。
井筒俊彦の『意識と本質』は、私にとっては後者で、最初は全く意味がわからず、興味も湧きませんでしたが、数年後読み返した時に、「なんと面白い本か!」、「なんとわかりやすい本か!」(笑)と感激したことを覚えています。
ご存知の方も多く、よく紹介もされていますが、臨床心理学に関心のある人の必読書として、私もこの本をあげたいと思います。
井筒俊彦は、単に哲学者という表現では収まらない人で、東洋思想家というか言語学者というかイスラム文化学者というか、あるいはそのすべてであるような天才です。井筒俊彦の天才性は有名で、数十の言語を理解し、また話すこともできたと言います。Jung, C.Gが関係しているエラノス会議に何度も呼ばれて講演をしていることでも知られています。
そのような天才的な学者がずっと関心があったのは「意識とは何か」、「日本人の意識とは何か」というテーマでした。
『意識と本質』は、意識の多様なあり方とその構造という、非常に難しいテーマを書いていながら、全く晦渋になっておらず、意識というものの複雑さや不思議さをそのまま理解できたような気になる(苦笑)、全く素晴らしい本です。
評論家の若松英輔氏は、「井筒の重要な思想とその著書は多くあるが、その中でも『意識と本質』は特別だ」、「極端に言えば『意識と本質』だけ読めば井筒は理解できる」とまで言っている本です。
この本の中でもっとも印象深い箇所といえば、次の部分になるでしょう。
われわれは、花は花である、私は私である、と考えている。花が存在している、私が存在している、と言うけれど、少し深く考えていったら、それは違うのだと。
本当は「花が存在している、のではなく、存在が花している、と言うべきなんだ」と。
そして、「花を花たらしめているもの、それが『本質』なのだ」と言うのです。
私は、大きくは無意識というものを想定しながら心理療法を行う立場ですが、そのような観点から、この言葉は本当に大きな意味をもっていると感じられるのです。
クライエントがわれわれの前に示してくれる種々のイメージ(それはお話であったり、夢であったり、絵であったり、箱庭であったりするわけですが)は、「本質」が一つの場合としてここに現れているのだと考えられます。「本質」はそれぞれですが、絶対共通の基盤として「存在」があり、「存在」が「本質」をある形象として世界に現前させているのです。そういう意味で、井筒の「本質」はJung, C.Gの「元型」と同じものです(と、井筒自身が言っています)。
花の本質があるのではなく、本質が花という形でその姿を見せてくれているのです。
なんだかよくわかりませんが、すごい話です(笑)。
私はこの他にも、この本から多くを学びましたが、その中でももっとも大きかったのは、「眺め」の意識という考えです。
(実は『意識と本質』には意識について大事な考察がたくさんなされているのですが、「眺め」の意識は全体の流れの中でわずかに触れられている程度であったため、これまでほとんど注目されてこなかったものでした)
近代西洋の意識(すなわちそれは現代のわれわれの意識でもあるわけですがー)は、いろいろなものを切断しながら「はっきりさせる」働きであると言えます。それによって、われわれは科学技術を発展させ、生活を豊かにしてきたわけです。あまりにそのような意識のあり方が有効であったために、われわれはほとんどそれ以外の意識のありようを想定することすらできなくなってきました。しかし、本当に、そのような「はっきりさせる」意識しか、意識のありようはないのだろうか。それが井筒の抱いた大きな疑問でした。
井筒は「眺め」の意識を、和歌の研究から着想しました。それは「わざとぼんやりさせるとによって(ー先ほどの「本質」というものをー)味わうような」意識態度を意味しています。
そして、これをわが国独自の非常にユニークな意識のありようだと発見したのです。
カウンセリングで必要となるのは、「はっきりさせる」=「見る」意識だけだろうか。
むしろ、ぼんやりと「眺める」ような意識のあり方も必要なのではないだろうか、と。
『意識と本質』
そのような発想の広がる、素晴らしい本です。
(『東京物語』小津安二郎監督 より)
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