ケースカンファレンスという体験
心理療法という仕事をする上でケースカンファレンスは欠かせないものです。
私も、これまでの職場の多くでは定期的なケースカンファレンスが開かれ、参加してきました。今は勤務先の大学で、主に大学院生が担当するケースのケースカンファレンスに参加しています。このようなケースカンファレンスに定期的に参加していることが、臨床心理士や公認心理師など専門資格を取得して業務をおこなう者の倫理的な責務でもあるように思います。
今回は、心理療法を仕事としておこなう者にとってケースカンファレンスとはどのような体験か、またそれを有意義な体験とするために気をつけておくとよさそうなことは何か、について考えてみたいと思います。
と言ってはみたものの、一口にケースカンファレンスと言ってもさまざまなタイプがあります。
例えば、心理職だけでおこなうものがあれば、他職種間でおこなうものもあります。同じ職場内でおこなわれるものがあれば、職場を離れておこなうものもあります。ケースを提出する者とそれを聞いて議論する者が平等に位置づいているものがあれば、発表者とコメンテーターと聞き手(フロア)のように役割が分かれているものもあります。コメンテーターや指導的な人物が、一人のときと複数のときでも違います。
特に大きいのは技法的オリエンテーションの要因で、その場で支配的な影響をもつ技法的オリエンテーションによってケースカンファレンスのありようや、そこから受ける体験というのはかなり違ってくるでしょう。
ケースカンファレンスのあり方については専門に研究されている論文もありますし、一度にすべてを論じることもできませんから、今回は標準的なカンファレンス(同じ職場において心理職だけでおこなわれ、ある人が自分の担当しているケースを発表し、フロアや指導的な立場の人から意見をもらうというもの)を想定して考えてみます。
ケースカンファレンスは、発表者にとって当該ケースの見立てやかかわり方についての示唆を得るということが目的ですが、ケースカンファレンスはその個別事例にとってだけ意味のあるものかと言うと、そうではありません。
ケースカンファレンスの優れたところは、実は、目の前の一事例に限らず、担当している他のケースにも影響があるということなのです。さらには、ケースを担当している発表者にとってだけ意味があるのではなく、周りで聞いている人にとっても意味のある場合があるのです。
なぜそういうことが起こるのか。
これは河合隼雄先生が言われていることですが、心理療法のケースカンファレンスで発表される内容は、単なる客観的事実の列挙ではありません。治療者がある個別の問題を抱えたクライエントに必死に関わっている(体験している)ことを、その当の本人である治療者が報告しているという意味で、「主観的な語り」という側面があります。ゆえに、ケースについての具体的な示唆や助言だけでなく、自ら語ることによって自分のおこなっていることがインテグレートされてくる、意味を帯びてくる、ということがあります。そのことは他のケースにも敷衍していきます。また、自分の語りを周囲に聞いて受け止めてもらうことで、「とにかくもう少しがんばってみよう」とエンパワメントされる側面もあります。
さらに、ある治療者が必死に関わっている話を聞くことで、聞き手(他の参加者)の心が動かされる(河合隼雄先生はこれを「ムーブを起こす」と言っています)という特徴があります。そのため、発表者以外の者にとっても、(自分とは関係のない)個別のケースを聞いているにもかかわらず、深いところで各自の別のケースに役立つ何ものかが得られるのです。
逆に言うと、そういう動きをもたらさないカンファレンスはあまり意味がないとも言えるのです。
客観的なデータをもとにしてそこから個別へ応用する科学的なアプローチが、カンファレンスの表の構造だとすると、治療者とクライエントとの「個別の人間関係のお話」を聞いていることから受ける影響は、カンファレンスの底に流れる、はっきりとは見えにくいが味わい深い効果なのです。
これについて河合隼雄先生は、科学的アプローチが普遍的なものとして有効であることを認めつつ、それは「私」を切り離したところに成立する「没主観的普遍性」であり、普遍性にはもう一つの側面があると言います。それは「誰かと誰かの関係」を聞いていることが、「私とあなたの関係」に影響してくる、「間主観的普遍性」とでも言うべきものであり、それが心理療法のケースカンファレンスでは重要になるのだと述べています。その通りでありましょう。
だから、個別の一事例を聞いても役に立つのです。
村上春樹さんはある対談の中で「事実をリアルに書いただけでは、本当のリアリティにならない」と言っています。小説家がフィクションを使いながら物語を書くのは、「より生き生きとパラフレーズされたリアリティ」「リアリティの肝を抜き出して、新しい身体に移し替える」ためで、そのことによって読み手にありありとリアリティの力が伝わるようにするのだと。事例報告は決して小説ではありませんが、(そして、客観的事実はもちろん大切ですが)主観的な語りの側面をもつ事例報告が、その一事例を超えて意味をもつのは、同じような働きがあるのだと言ってもよいでしょう。
ある特定の治療者がある個別のクライエントにかかわっている経緯という意味で言えば、ケースカンファレンスにはまったく普遍性はなく、あくまで個別の、その場限りの検討のように思われますが、実は「間主観的な普遍性」という意味では非常に有益な効果をもたらすのがケースカンファレンスという体験です。
その意味で、自分が発表することがなくても、また自分に関心のないケースであっても参加した方がよいのです。
では、ケースカンファレンスを意味のある体験とするために、発表者や参加者が心掛けておくとよいことは何でしょうか。
第一は、発表者は発表の素材の中にできるだけ自分の感じたことや考察を素直に書いておくということです。同様のことは面接記録にかかる研究でしばしば言われています。ケースカンファレンスは論文や研究発表とは違いますから、必ずしもまとまった筋道や考察が必要なものではありませんが、逐語録ほぼそのままといった提示の仕方は望ましくないでしょう。例えば、面接経過を録音して、その音声を聞けば、その場で話されたことはかなり忠実に再現しているのですが、かと言って、それでよいケースカンファレンスになるかというと、そうなりません。心理療法というものは治療者である「私」の影響を受けるものですから、そのとき治療者の内部にどのような動きが起こっているかを合わせて検討する必要があるのです。つまり、治療者の内側をいったん通った事例の提示が望ましいということです。
第二は、発表した後にそのケースに関していろいろな意見が出てくるわけですが、出てきた意見についてなんでも納得して聞けばよいということではない、「お説ごもっとも」ではいけないということです。コメントする人が目上の人や指導的な立場の人であった場合、なんとなくしっくりきていないのに、無理に納得しようとしている発表者を見ますが、あまりよいこととは思えません。発表者はケースを担当している本人として、その感覚に自信をもったらいい。フロアや指導的な立場の人から出た意見が自分の感覚とそぐわないと感じれば、発表者として積極的に自らの理解を伝えるとよいと思います。
第三は、先のポイントと逆なんですが、素直になってみるということです。治療的面接もカンファレンスもその取り組み方は同じようなところがあって、「最初にしっかり自身の意見を立ち上げておいて」、かつ「自分と違った意見があって、それが納得できるのあれば、柔軟に自分の意見を引き下げて、それを取り入れようとする」人は、上手い人です。
上記は簡単なようで、実は多くの人はそうなっていなくて、自分の意見をもたずに全部教えてもらおうとして出してくる場合か、自分の意見に頑なになっている場合か、どちらかが多いように思われます。
何事も強い人は素直な人です。
最後に、ケースカンファレンスに参加してコメントをする場合に注意しなければならない点を述べます。
一つは、「あまり熱いコメントにならないように」ということです。先にも述べたようにケースに取り組んでいるのはあくまで発表者ですから、第三者が熱くなる必要はありません。
第三者の熱いコメントというのは、昔のお風呂みたいなもので、上ばっかり熱湯で下は水みたいに冷たいということが多いので(笑)、「覚悟」だとか「寄り添い」だとか「全力で」だとかがカンファレンスの中で出てきても、そういうのは、まあ字義的には正しいのだとしても話半分で聞いていてよいのかなと思います。
二つめは、「まとめすぎないように」、「切れ味がよすぎないように」ということです。
一般的な感覚から言うと逆なような気がしますが、私はカンファレンスではまとめすぎないコメントの方が望ましいように思います。まとまりすぎると、そのケースについて何かすごくわかったような気になり、それゆえ実際はその後のケースへの取り組みの動きを止めてしまっているようなところがあります。
また「切れ味が鋭い」(大学教員によく見られますが)のも、(それはそれで学ぶところが大きいのですが)必ずしも十分ではないでしょう。特に気持ちのいいワンフレーズが出た場合は気をつけたいところです。
ときどき見るのは、「なんか上手いこと言ってやったぜ」というタイプです(笑)。
こういう人は、実は発表はあまり聞いていなくて、(こう言ってやろう)と自分の言うことばかり考えていることが多いものです。これは全然よくない。
切れ味が気になる人は、切れ味がよすぎて切られた方が気がついていないということはないかとか、切った方が気持ちよくなっているだけではないかと振り返ってみることが大事でしょう。ゆえに、切れ味が鋭くなりすぎそうなときは、むしろわざとざらっと切るようなコメントを、すなわち、言い淀んだり、つっかえつっかえ言ったり、言い切らずに婉曲に述べたりした方が意味のある伝わり方になるときさえあると思います。
「何かわからないけど、鋭いことを言われて気持ちよかった」というものより、発表した側や聞き手にざらっとした違和感が残るのがよいカンファレンス体験だと思います。
発表することが減り、コメントをする側に回ることが自然と増えてしまうと、人はすぐ堕落します。本当におそろしいことです。上記は私自身のこととして本当に注意しなければならないと考えています。
今回はケースカンファレンスという体験について素朴に書いてみましたが、いずれこのあたりを整理して論文に書いてみたいと思っています。
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